友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

運命を受け入れること

2009年03月08日 22時16分20秒 | Weblog
 現在の医学の進歩は目覚しいものがあるし、そのおかげでたくさんの命が助かっていることも承知している。にもかかわらず、私は医学の進歩を素直に喜べないへそ曲がりである。「お前だって、今日の医学のおかげをどんなに受けていることか」と言われるだろう。私が「臓器移植までして、本当に助けなくてはいけないのか?」と疑問を告げた時、「移植で助かるなら、助けるべきではないの。私の子どもが移植でしか助からないのであれば、きっとそうする」と言われたことがある。

 確かに自分の子どもがそのような場合であれば、親としては何をしてでも助けるべきなのかも知れない。けれども、自分自身のことであれば、間違いなく臓器移植は拒否したい。もっと言えば、たとえ家族であっても、臓器移植まではしたくないと思っている。思っているだけで、実際にそうした場面に立ち会うことになれば、宗旨替えをしてしまうかも知れない。冷たい人間だと言われても、臓器移植はしたくないのに。

 医学は人の命を助けることが目的である。けれども、人には運命があると私は思っている。運命というと宗教臭いけれど、生命の誕生があるように死という終末もある。生き永らえることだけが生きている意味ではないだろう。もちろん、最善を尽くすように人は運命付けられている。何もせずに傍観していることは許されない。人は生きている間は努力するように定められているのだ。神は、神を信じているわけではないが、別の言葉で表せば、運命は、その人がどのように生きるかは、逆にまたどのように死ぬかは決まっている。

 現在の医学に欠けているのは、死を受け入れることだと私は思っている。治療のどこで線を引くのか、もちろん私はわからないけれど、どこかで線を引くべきではないのか。ここまでは治療するけれど、これを越して治療はできないというものがあってもいいのではないか。

 ところがある時、不妊治療の病院で受精卵を取り違えて子宮に移した事件があったことから、「どうしてそこまでして子どもが欲しいんだろうね」と隣の女性に話したことがあった。するとその女性は「結婚すれば当然子どもができるとみんな思っているけれど、子どもができない苦しみとか悔しさとか、わからないのね」と言う。ビックリして「えっ?」と聞き返した。「私も10年子どもができなくて、不妊治療をしてきたの」と言われた。

 「本当にあなたは人の痛みがわからないわね。相手の立場に立ってものが言えないのだから」と、カミさんにケチョンケチョンに言われてしまった。私はわがままで自分勝手であるけれど、相手のことにはいつも気を遣ってきたつもりであったが、実際に直面して、自分の配慮のなさを思い知った。

 子どもが欲しいと思っている女性に面と向かって、「運命なのだからあきらめなさい」とは冷徹な私でも言えない。移植手術をすればわが子が助かると思っている人に、「臓器移植は反対だ」と面と向かっては言えない。けれども、私自身としては死を迎える運命があることを認めたいし受け入れたい。
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