友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

忙しく一日を過ごす

2009年03月15日 22時13分24秒 | Weblog
 今日そして明日までという展覧会が多かったので、思い切って出かけてきた。初めに高島屋で行なわれている『田渕俊夫展』を見た。京都の知積院講堂の襖絵を展示したもので、どうしても見たいと思っていた展覧会だ。田渕さんは3つ年上の人で、愛知県立芸大ができた時に助手となった。1990年にメナード美術館で開かれた田渕俊夫展で初めて作品を見て、東山魁夷氏や平山郁夫氏の後を継ぐ人だと思った。この時の作品は青緑を基本とし、他の一切の色を排除した作風で、とても深遠な雰囲気が醸し出されていた。

 どんな襖絵なのか、あるいはどんな技法で描かれているのか、とても興味深かった。知積院講堂の襖絵は全て墨だけのモノトーンで描かれていて、光の扱いがテーマになっているように思われた。これだけの作品を仕上げるのに5年の歳月を要したとあったけれど、無理もないと思った。それにしてもどんな風に作品を仕上げたのかと思ったけれど、作品を紹介するビデオを見て納得できた。フィルムとオーバーヘッドを利用し、投射して描いていた。やはり近代機器を使っていたのか、この手の技法を公開しても今や何も恐れることのない頂点にある人の自信が見えた。

 この後、栄で行なわれている『アートフェスティバル2009』を見に行った。この展覧会を企画した私の大学の先輩で現代美術作家の巨匠、山田彊一氏からぜひ見に来いとハガキをいただいたからだ。山田氏との縁は深く、同じ教員だった時には一緒にインドへ行くつもりだったが、私の都合で実現できなかった。あの時、一緒にインドを旅していたなら随分違った人生になっていただろう。偶然というものは誠に大きく一生に作用するものだ。だから偶然などというものはなく、この世は全て必然の積み重ねだということも納得できる。

 そこから今度は桜山の博物館へ出かけ、白土会展を見てきた。田渕さんの作品を見た後だったので、ちょっと物足りなさもあったけれど、それはまた仕方のないこと。みんなが田渕さんのような作品を描いていたのでは手練を重ねた甲斐がなくなってしまうし、面白くもない。人にはそれぞれに違うものがあるから作品の違いもあり、見る人を楽しませてくれるのだろう。

 もう一度栄に戻って、県芸術劇場小ホールで行なわれた演劇グループ「凛」による『夕空はれて』を見た。知人が出演しているからであるが、金曜日に名演を見たばかりだったからか、格の違いを見せ付けられた気がした。出演者はそれぞれにとても頑張って演技をしていることが痛いほど伝わってくるのに、「いったいこの芝居は何?」と思ってしまった。ストリーはまるで「犬神家の一族」そっくりであり、幽霊なのか幻なのかわからないものが出てきたり、何がテーマなのかさっぱりわからなかった。原作も演出も最低だなと思った。

 演出としては喜劇仕立てにしたかったのかもしれない。それはそれでもよいと思うけれど、じゃあこの芝居で何を訴えようとしたのだろう。喜劇仕立てというのはあくまで手段であって、伝えたい何かがなければ芝居にはならないのではないか。漫才やコントではなく芝居なのだから、面白かっただけではあまりにもつまらない。脚本選びからやり直して欲しいと思った。
コメント
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