友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

気候がおかしい

2009年03月10日 19時32分05秒 | Weblog
 風は強かったけれど、日差しはすっかり春になっていて、車の中にいると暑いくらいだった。どうやら今年は春の訪れが早そうだ。北海道では流氷が来ないのでタラが獲れないとか、その代わりなのかニシンが大漁とかいう。そうかと思えば、越前クラゲがやって来ないので漁師は安堵しているが、捕獲した越前クラゲの料理を売りにしている店は困っているとか。人から聞いた話ばかりだが、気候変動は確かに起こっているようだ。

 小学校で卒業生と思われる子どもたちが学校の周りの雑草をとってきれいにしていた。そうか、もうすぐ卒業式か。このまま暖冬が続くと、卒業式に満開の桜を見ることになってしまうのだろうか。いや、それは大げさだとしても、入学式の頃に桜が見られないのは寂しい気がする。長い間の生活習慣で、入学式の頃には桜が満開となり、新しい生活が始まることを感じたものだ。日本の4月入学制度は風土に合っていて、気持ちが希望に燃えてくるよい時期だと思う。

 日本が水の豊かな国だったからなのか定かではないが、日本人は嫌なことや苦しいことは「水に流す」ことで、けじめとしてきた。反省のない人たちといわれる所以である。戦国時代の話を読んでも映画で見るような凄まじい殺し合いは少なかったようだ。大将同士かあるいはそれに準じる人物が一騎打ちで決着をつける戦い方が武士の戦争であった。それが変わったのは、戦いに鉄砲が用いられてからだとあった。

 相手方の大将の血を受け継ぐものを皆殺しにするのは残酷ではあるが、下級の者まで殺さないための方法でもあったという。血統が大事であったためだろうけれど、そういう血が流れていない者の意思しか通用しない時代であったのだ。血統などどうでもいいように思うのは、そういう血筋に無いからで、今日でも天皇は長男が跡継ぎと決まっていることからも、血の流れを大切に思っている人は結構多い。

 そういう「水に流す」ことができない部分を持ちながら、たいていのことは水に流してきた。いつも思うけれど、第2次世界大戦の戦争責任を誰がどのように取ったのだろう。今日では「欧米の植民地政策からアジアを開放した戦い」と言ったり、「アメリカが仕組んで戦争で、日本は巻き込まれた」とまでも堂々と言われている。わが国の借金が800兆円とも1千兆円とも言われているけれど、そうした借金を作ってしまった政治の責任は誰も取ろうとしない。

 麻生首相にしても、小沢民主党党首にしても、「何一つ間違ったことはしていない」と言い切っている。それでは間違いが明らかとなったならば、自ら責任を取るのだろうか。気候がおかしいけれど、政治もおかしいのではないか。気候までは力が及ばなくても、政治を正すことは人としてできるのではないだろうか。
コメント
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