友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

動物にも感情はある?

2009年03月19日 20時54分40秒 | Weblog
 汗ばむほどの暖かさの中で小学校の卒業式となった。校庭から卒業生の子どもたちの声が弾んで聞こえてくる。子どもの両親であろう夫婦や祖父母の姿も見える。子どもたちは卒業の寂しさよりも喜びの方が勝っているように、あちらこちらで陽気な叫び声をあげて走り回っている。卒業式と言うと、底冷えがする体育館で厳かに行なわれるイメージが強かったけれど、私が参加した卒業式も昔のような厳かを保ちつつも、時代の変化を着実に反映していた。

 厳かとか寂しいとか嬉しいとかは人間だけのもの、感情は人間だけにある特有の機能で、この機能こそが人類の発展の原動力であり文化の源泉だとブログに書いたことがある。「他人の不幸は蜜の味?」というタイトルだったと思う。それに対してクエスチョンをいただいた。彼は猫を飼っていて、1匹の猫が彼の胡坐の中にいると他の猫はそれを妬むから、動物にもそうした感情はあるという指摘である。孫娘も「ペットを飼ったことがない人はわからない」と私を弾劾する。

 私の家にも子どもの頃は犬がいたし、もっと子どもの頃は鶏もいた。鳩は自分で飼ったことがある。小屋も自分で作った。カナリヤもいたがあるが、エサやりの時に逃してしまった。長女が小学生の時に手のりインコをもらってきた。いつの間にかインコの世話は私の係りとなり、インコの方も私に一番なついていた。私は外出する時はインコを籠から出しておくのだが、私が家に帰って玄関の鍵を開ける音を聞きつけ飛んできた。手のりのはずだったけれど、私の肩に止まり、頭を居場所としていた。

 だから、動物にも甘え上手がいることは知っている。飼っている動物を見ていると確かに感情があるようにも思う。でもそれは人間が勝手に自分の思いを動物に投影しているのではないだろうか。犬は盛んに尾っぽを振って喜んでいるように見える。叱れば悲しそうな顔をする。だからといって、それを感情表現と言えるのか、私にはその知識がない。動物が人間に対して見せるそうした仕草が動物同士で行なうのであれば、コミュニケーションとしての感情表現が存在するといえるけれど、動物同士の時は威嚇であるか、異性へのアプローチに限られているような気がする。

 動物に詳しい人はぜひ教えて欲しい。動物にとって一番大事なことは食べるということであり、子孫を残すということである。この二つを確保した人間は全く動物と違う生き物になったと私は思っている。食事でもてなすことは人間の原点だというようなことを、ゴリラを研究している京大の山極寿一さんが語っていたと思う。子孫を残す行為も快楽に高めてしまった。食事もSEXも文化にできたことは人間が動物と全く違う存在であることを証明している。
コメント
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