友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

老いてなお愛する

2009年03月01日 23時16分42秒 | Weblog
 映画『おくりびと』がアカデミー賞の外国語映画賞を獲得した。この映画を海外旅行での飛行機の中で見た人から、「とてもいい映画」とは聞いていたが、まさかアカデミー賞に輝くとは驚いた。どんな映画なのかと思って、近くの映画館に出かけたがすでに上映2回分が満員で見ることが出来なかった。こうなると意地でも見たい人と、それならもういいと諦める人と、2つに分かれるが私はどうも後者の方で、テレビで放映されるまで待とうと思った。

 映画『おくりびと』とは関係ないと思うけれど、どんな風に死を迎えるかが最近話題になっている。若い時なら考えてもみなかったことだ。それでも年老いたからといっても、何をどういう風に考えていったらよいのかピンとこない。「家で家族に見守られて死にたい」と言う人もいるけれど、病院であろうが家であろうが路上であろうが、死の場所など指定できるものではないし、どこだってかまわないと私は思っている。

 朝日新聞社の週刊誌『AERA』が1998年に臨時増刊号「人生の店じまいに―死の準備」を発行している。その翌年には臨時増刊号「老いる準備」を発行した。2冊とも買っているがペラペラと見ただけで、きちんと読んでもいなかった。まだ実感がないということなのだろう。私は生きることの意味や生きることへの執着の方がはるかに関心が強い。老いることも死ぬことも確実にやってくるが、そこに何かの意味を見出すことなんか無いと思っている。そんなことは考えても仕方がないことだと決め付けていた。

 老いてもなお人を愛し続けている友だちに感心し関心を持った。歳を重ねていくことは枯れていくことのように思っていたけれど、自分自身が年老いてきて、そうではないことを知ることができた。人はいつまで、若い時と同じような感性を持ち続けることができるのだろう。老いるということは若い人にはない、もっと卓越した「愛」があってもよいではないか。映画『エレジー』は60代の老人が20代の女性とのSEXを楽しむうちに次第に「恋」をしていく。最後には肉体の交わりを超えた人のつながりを暗示しているが、いささか無理なエンドである。

 12年以上も、友だち以上恋人未満の関係を維持している友だちは、肉体の交わりがなかったから継続できたし、肉体を超えた情愛で将来にかけてもずっと結ばれていたいと言う。彼の断食にも似た敬虔な姿勢はどこから生まれてくるのだろう。映画『エレジー』とは全く違う清廉な生き方はどのようにして生まれ、そしてどこへ向かうのか、俗人の私にはとても関心がある。それでもいつか、私たちは死を迎えるし、死をもって終りとしなくても、いろんな「愛」の結末を考えられるはずだ。

 愛することに貪欲な人生もまた人生であり、断ち切ろうとする人生もまた人生である。これを全く別のものと考えることは出来ないと私自身は思っている。友だちとまた話ができることを楽しみにしている。
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