友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛することをどうやって教えたらいいのか

2009年03月12日 21時24分30秒 | Weblog
 私のケイタイを勝手に使って、ケイタイ小説を読んでいた孫娘が「ねえ、バージンって何?」と聞いてきた。「処女のことだけど」と答えると、ケイタイから目をそらさずに「ああ、そうか、そうか」と言う。「ママの妹が結婚式した時に、パパちゃんが手を取って歩いたところをバージンロードっていうでしょう」と話に引き込もうと声をかける。すると孫娘は「処女の道か。馬ッ鹿だね、処女かどうかなんてわからんのに」と言う。「へぇー、そうか、そんなことが言えるようになったんだ」と私は感心して言った。

 孫娘の仲間では不景気が話題になっているそうだ。それはすごい。社会に関心があるのかと思ったけれど、不景気でお金がないことから援助交際へと話が進んだのだと言う。そういうことに強い関心を持っている子がいるのだろう。「500万円もらえるならエッチしてもいい」と言う子。「そんなお金持っているのはジジイだよ。絶対いやだな」と言う子。「10万円ならいいな。欲しいもん」と言う子。15歳になろうとする女の子は危険な時期にあるようだ。お金では愛は買えないと教えるためにはどうすればいいのかと考えてしまう。

 年金生活の私たちにはピンと来ないけれど、世間は不景気で大変だ。病院にかかれない子どもが増えているという。親が解雇されたり、収入が激減したりして病院へ行けないのだ。学校の休みの日に怪我をしても病院へ行かないし手当てもしないで、学校へ来た時に保健室へ駆け込んでくる子どもたちがいる。そうかと思えば、高校では授業料が払えなくて退学しなければならない子どもが増えてきている。つい少し前までは、記録的な好景気が続いていると言われていたのに、この様変わりは一体何なのだろう。

 15歳になろうとする勉強には全く興味のない女の子が、「家のためだから」と身体を売るような時代がすぐそこまで来ているのだろうか。それではまるで、昭和の初めに戻ったような時代錯誤だ。性に対する興味から「援助交際」をする馬鹿な女の子がいた時代から貧しさゆえに身体を売る時代へと後戻りしていくなど、とても考えられなかったけれど、不況はますます深みに入り込んでいくようだ。

 あの子たちに愛を教えるにはどうしたらよいのだろう。彼女たちはテレビは見るけれど小説など読まないし、ましてや私たちがあの頃に読んだ伊藤左千夫の『野菊の墓』やヘルマン・セッセの『車輪の下』とかジイドの『狭き門』など絶対に読まないだろう。恋しくて恋しくて、切なくて切なくて、どうしようもない恋の歓びと苦しみを、それゆえにその大切さをどのようにしたら伝えられるのだろう。ケイタイ小説はマンガと一緒で深みに欠ける。人の見方が単純過ぎると思うのは私だけだろうか。

 愛することの尊さは愛する側の量と質とによって決まると私は思っている。彼女たちが自分で自分の量と質とを手に入れ、豊かにしていって欲しいと願う以外に手立てはないのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする