友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

映画「おくりびと」を観る

2009年03月23日 23時43分21秒 | Weblog
 近頃、孫娘は不機嫌である。なんとなくイライラしている。今朝は些細なことでカチンと来たので口もきかないでいた。なんとなくイライラしているのは自分の方かもしれないと、後になって思った。「何かやる気がしない」と孫娘は言う。そういう時は誰にでもある。「気合を入れないと!」と彼女は自分に言い聞かせている。「そうだね」と言う私の方が本当は気合を入れなくてはいけないのかもしれないなと思う。

 孫娘の両親が仲たがいをしたのは4年ほど前だ。父親は家を出て行ってしまった。そして母親はこの春から新しい人生を歩き出した。父親も母親もいなくなった家で彼女は暮らしている。母親はもちろんのこと、実父も継父も彼女のことをとても気にかけてくれている。もう、子どもではないから、逆にそのことが彼女に現実の重さになっているのかもしれない。実父も継父も私から見ると、とてもよい男に思える。よく働くし、よく気がつくし、思いやりがある。私は自分の子どもで男の子が生まれるのはいやだったけれど、婿という息子の存在はうれしかった。

 二人だけになると、何を話してよいのかわからなくて困ったが、息子として頼りに思っていたし、実際に私のためによく付き合ってくれた。だから大事に思っていたから、彼が好きだというコーヒーを毎朝届けたりしていた。「あのね、そういうおせっかいがパパには苦痛だったのよ」と孫娘から言われるまで気が付かなかった。思い込みと思い違いが人間にとって一番の不運だ。わかっているつもりが、わかっていなかったのだ。

 孫娘の憂鬱が私にも広がりそうだったので、気分転換に映画『おくりびと』を観てきた。どうしてこの作品がアカデミー賞なのか、正直よくわからなかった。カンヌ映画祭で評価の高かった『もがりの森』の方が私には内容があるように思われた。アメリカ人の評価とヨーロッパ人の評価では映画の見方が違いのかもしれない。『もがりの森』は人生は不可解と考えさせられるが、『おくりびと』は人生はそういうものだと納得させられる。

 主人公が何十年も会っていない父親の死に立会い、「たった一つのダンボール箱しかない。この人の人生は何だったのだろう」と言うセリフがある。人生はそんなものだろうと思う。これが何億円とか仮に何兆円であっても同じことだ。何を残したからといったところで、死んでいった者にとってはどうでもよいことに過ぎない。人は何かを残すために生きているわけでは決してない。形にあるものは何もなくても、また逆にどんなに多くのものを残そうと、そこにどれだけの差があるのだろう。

 人はきっと、どれだけ人を愛したか、どれだけ人に愛されたか、それだけが人生の宝だと思う。もっと言えば、どれだけ愛したであろうか、その自己満足だけで充分なのではないだろうか。
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