友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ピアノのリハーサルを聴く

2009年03月21日 23時51分52秒 | Weblog
 孫娘のピアノの発表会が3月29日にあり、今晩はそのために個別のリハーサルが行なわれた。孫娘のピアノの演奏を聴いていて、NHKの爆笑問題で取り上げていたピアノの歴史を思い出した。弦を叩くことでこれだけ複雑で豊かな音色を出せる楽器が、どんな風に工夫されてきたかを取り上げていた。電子ピアノで『ひな祭り』の演奏をしてくれた人が「ピアノで弾けばもっと素敵なのよ」と教えてくれた。

 高校生の時、私は新聞部だったけれど、その新聞部の前の廊下の行き止まりが音楽室で、朝早くからピアノを弾きに来ていた学年下の女の子がいた。背は高くなかったし、色白でもない女の子だったけれど、細めの目がいつもニコニコしている愛想のいい子だった。いつしか、彼女のピアノを聴くために1時間前に登校し、部室で流れてくる演奏を聴いていた。そこ頃、私は中学から好きだった女の子がいた。色白で目がパッチリしていて、華奢でおしゃべりな女の子だった。

 私は色白の女の子が好きで恋していたのに、毎日聴いていたピアノの女の子も好きになっていた。二人ともに女としては幼かった。可愛いことでは間違いなく可愛かったけれど、高校生の男の子たちはもう少し性を意識させるような女に関心があったのではないかと思う。大人びた女の子たちの方が人気があった。私もまたモンローのような明るい女よりもバルドーのような影のある女に憧れていた。憧れているばかりか、年上の女の人が自分を男にしてくれると妄想していた。

 私はキリスト教会に通い牧師になろうとしていたから、二人の女性を好きになること事態に罪の意識を持っていたのに、みだらな女性とSEXしたいと思う気持ちがあることに戸惑った。苦悶だった。自分の罪深さに嘆き哀しみ苦しんだ。人はどうして清く生きられないのか、いや、人ではなく問題は自分自身だと気が付いた。自分は真面目にまっとうな道を歩いているはずなのに、けれどもそうでない自分が存在する。キリスト者はそういう自分を克服してキリスト者となる。仏教とは己の世俗に汚れた心と向き合い、悟りを開いていく。

 けれども、自分はまっとうな道が歩けないし、世俗から自分を解放できない。歳をとるということはこれらのことから超越した人間となることだと思っていたけれど、なかなかそうなれない自分がある。けれども今になってみると、私という人間はそういう不完全な人間なのだと「悟れば」、生きることもまた楽しくなる。

 ピアノの演奏を聴きながら、無限に広がっていく自分の勝手な世界に浸っていると、孫娘に注意する先生の声が聞こえてくる。いけない、いけない。妄想の世界に入っていてはいけないと自分に言い聞かせてリハーサルを聞く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする