昨夜、NHK衛星第2(BS11)でアメリカ映画を観た。カミさんは早々と寝てしまったので、何の目的もなくテレビをつけたところ、やっていたものだ。途中からなのでわからないところもあるが、ウィーンを舞台にアメリカ人の青年とフランス人の学生のたった1日か2日かの物語だ。アメリカ映画となると娯楽性が高く、恋愛映画なら濃厚なベッドシーンがよく出てくるように思っていたが、全く違う映画だった。
この映画はほとんどふたりの会話だけで成り立っている。だから言葉がとても重要な意味を持っている。気の利いた素敵な言葉がいくつかあったけれど、メモをしなかったのでここで紹介することが出来ないので残念だ。ふたりは大陸を結ぶ鉄道の中で偶然に知り合ったようだ。後半でフランス人女性が「はじめから男と列車を降りるつもりだった」あるいは「寝てもいいと思っていた」と告白する場面が出てくる。ふたりはウィーンの夜の街を彷徨する。
あちらこちらと歩きながら、あるいは見学したり、食事をしたりしながら、ともに過去の話や自分が人と打ち解けられない性格であることなど、止め処もなく話し合う。時にはお互いに質問し合ったり、時にはそれぞれが得意とする分野での学問的な話も出てくる。男と女であり、ひきつけあうものを感じてくる。キスもする。お互いに相手を意識し、必要な人だと感じるようになる。
このまま別れるかそれともセックスして別れるか、この時のふたりの会話が面白いというか、文学的というか、もっと言えば哲学的ということもできるような男と女の会話だった。ふたりは結局セックスしたのかしなかったのか、そのシーンは全くなかった。キスし抱擁する場面はあるけれど、その先のシーンのない映画をアメリカ人も作るようになったのだと感心した。ハリウッド映画の全盛期はつまらない映画が多かったけれど、こんな文学作品のような映画も作るようになったのだ。
プラットホームでふたりはキスを繰り返し、抱擁し、そして別れる。けれどももう一度会おうとふたりがともに言い出す。「5年後に」「5年は長すぎる。1年後に」「いや、半年後の何月何日の何時に、ここで会おう」と約束する。多分、住所や電話番号といったものを交換することなく、再会を約束することで、愛を純化する作り方を見せたのだろう。私たちの時代のような終わり方であったけれど、ふたりの会話は現代を表していたし、男と女の普遍性にも突き当たる映画であった。
この映画はほとんどふたりの会話だけで成り立っている。だから言葉がとても重要な意味を持っている。気の利いた素敵な言葉がいくつかあったけれど、メモをしなかったのでここで紹介することが出来ないので残念だ。ふたりは大陸を結ぶ鉄道の中で偶然に知り合ったようだ。後半でフランス人女性が「はじめから男と列車を降りるつもりだった」あるいは「寝てもいいと思っていた」と告白する場面が出てくる。ふたりはウィーンの夜の街を彷徨する。
あちらこちらと歩きながら、あるいは見学したり、食事をしたりしながら、ともに過去の話や自分が人と打ち解けられない性格であることなど、止め処もなく話し合う。時にはお互いに質問し合ったり、時にはそれぞれが得意とする分野での学問的な話も出てくる。男と女であり、ひきつけあうものを感じてくる。キスもする。お互いに相手を意識し、必要な人だと感じるようになる。
このまま別れるかそれともセックスして別れるか、この時のふたりの会話が面白いというか、文学的というか、もっと言えば哲学的ということもできるような男と女の会話だった。ふたりは結局セックスしたのかしなかったのか、そのシーンは全くなかった。キスし抱擁する場面はあるけれど、その先のシーンのない映画をアメリカ人も作るようになったのだと感心した。ハリウッド映画の全盛期はつまらない映画が多かったけれど、こんな文学作品のような映画も作るようになったのだ。
プラットホームでふたりはキスを繰り返し、抱擁し、そして別れる。けれどももう一度会おうとふたりがともに言い出す。「5年後に」「5年は長すぎる。1年後に」「いや、半年後の何月何日の何時に、ここで会おう」と約束する。多分、住所や電話番号といったものを交換することなく、再会を約束することで、愛を純化する作り方を見せたのだろう。私たちの時代のような終わり方であったけれど、ふたりの会話は現代を表していたし、男と女の普遍性にも突き当たる映画であった。