友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

再び麻生発言について

2008年11月27日 20時32分37秒 | Weblog
 「アソウタロウ」という総理大臣は、なぜ政治家になったのだろう。政治家になるということは政治を行なう人になるということ。それだけに尊い志や信念の持ち主と普通なら考える。けれども、麻生首相の発言を聞くと、本当にこの人は何のために政治家になったのだろうと思ってしまう。

 今朝の中日新聞によれば、20日の経済財政諮問会議で麻生首相は、次のように発言したと報じていた。「私のほうが税金を払っている。たらたら飲んで食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」と。ここまで読んで何もおかしいと思わない人は、もう一度政治とは何かを勉強して欲しい。

 私は政治学を専攻したわけではないので、いつも感性で考えて言うのだが、政治の形ができてきたのは遠い祖先が群れを成して生活するようになってからだろう。群れを成していた方が安全で効率的だったからだ。群れを成せば当然、決まりがいるようになる。そしてまた、生産物を蓄えておくことができるようになれば富を生み、群れはもっと大きな群れとなり、村となり国となる。

 そこで、生産にかかわる者だけでなく、村や国のために働く者が必要になってくる。はじめは多分年寄りがその役目を果たしていたのだろうが、組織が大きくなり複雑になってくると、専門で任務に当たる者が生まれたのだろう。人々の代わりに、みんなに信頼されて、みんなのために働く人だ。役人である。そして、役人と役人を使う政治家とに分離していったのだろうが、出発点はそこに住む人々に代わって、働くということだ。

 生産に余裕ができてこそ、国家は成り立つ。役人や政治家のように働かない人がいても、みんなが暮らしていけるだけの生産力を持つようになったのだ。だから、みんなが負担して、道を造り橋を架け、自分たちの生活を守り、豊かにしてきた。私たち人間は群れを成した時から、全体で負担し合ってきたのだ。生産に携わらない老人や子どもたちの分も負担してきた。ハンディのある人に対しても同じだ。

 政治はそもそも「何もしない人の分をなぜ負担しなくてはならないか」ではなく、みんなで負担して、困っている人を助けることなのだ。それがわかっていない人がどうして政治家を務めることができるのか。野党が正義に徹することができるならば、即刻、麻生首相はクビだろうが、今の野党にその正義がない。麻生首相はますます延命策に打って出るだろう。国民はただ見つめるしかないというのも情けない話だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする