電車に乗ったら、いつの間にか眠ってしまった。気がついた時の駅で、30代の男と20代の女のカップルが乗り込んできて、私の向かいのシートに座った。職場が同じなのか、女がうれしそうに男に話しかけていた。男も盛んに話しに応じている様子だったが、次第に居眠りする時のような格好になっていった。そのうち私は眠くなって再び夢の世界へ入ってしまった。
2度目に目が覚めた時は乗り換え駅に着く時で、男は重い鞄を抱えて軽く会釈して降りていった。それから女が座っている窓の斜め後に立っていた。電車は動き出した。二人は何らかの別れの動作、そっと気付かれない程度に手を振るとか、目と目で「またね」と合図するとか、きっと何かするだろう。恋人同士なら当然そんなアクションがあってもいいはずだと思っていた。男は女の方を見ようとしなかったし、女はキリッと天井を見上げたままだ。
あれ、どうしたのだろう。私の観察は見事に外れたのかと思った瞬間、女の目が潤んで、涙が浮んできた。その涙を流さないようにと女はじっと上を見たままでいる。色白の丸顔で、ふっくらとしていたが、全体の印象は揺れることのない意志の強さがあった。目が猫のように目尻が上がっていた。形の良い厚い唇は優しさを示していた。朝方は冷えていてコートを羽織っている人さえいた。女もセーターを着ていたが、ジーパンの下は素足で低いヒール靴を履いていた。左手の小指は包帯をしていた。
女はしばらくして、右手でそっと涙をふき取り、顔を正面に向けたので、私は観察などしていませんというように横を向いた。女はなお、厚い唇をぐっと引き締め、大きくため息をつくような動作をして目を閉じた。それで、私はもう一度女を見たが、どうしてもジーパンと白い素足と安っぽい低い靴がなぜかチグハグな気がしてならなかった。
眠ってしまっていたから、二人がどんな会話をしていたのか全くわからない。それにしてもどうして女の目に涙が溢れることになったのだろう。そう思うと不意に、「男と女の間には深くて暗い川がある」と作家の野坂昭如氏が歌っていたのを思い出した。それから女に向かって、「貴女を振るような男はろくな男じゃないよ。あんな男なんかきっぱりあきらめなさい。そう、つまらない、価値のない、くだらない、さげすむことができる限りの言葉で男に見切りをつけた方がいいよ。ああ、最低な男だよ。一瞬でも心を動かされたけれど、それは男がよく見えなかったためだ。あんな男は地獄でも落ちろというものだよ。そのうちきっと貴女を愛してくれる人が現れるさ。絶対にね!」とテレパシーを送っておいた。
それから待てよと思った。そんな別れではなかったかも知れないぞ。たとえば、本当は愛し合っているのだが、別れることで愛を成就することだってある。別れることがお互いのためであるなら、涙を飲んで受け入れなくてはならない。未来のある男と女ならまだもがき苦しむこともあるだろう。しかしある程度の年齢を重ねた男女なら、大人の選択をしなくてはならないだろう。
女はあれからずうーと、同じ姿勢で目を瞑ったままだ。「貴女はまだ若い。幸せになってください」。私はもう一度テレパシーを送るが、女は以前として目を瞑ったままだった。
2度目に目が覚めた時は乗り換え駅に着く時で、男は重い鞄を抱えて軽く会釈して降りていった。それから女が座っている窓の斜め後に立っていた。電車は動き出した。二人は何らかの別れの動作、そっと気付かれない程度に手を振るとか、目と目で「またね」と合図するとか、きっと何かするだろう。恋人同士なら当然そんなアクションがあってもいいはずだと思っていた。男は女の方を見ようとしなかったし、女はキリッと天井を見上げたままだ。
あれ、どうしたのだろう。私の観察は見事に外れたのかと思った瞬間、女の目が潤んで、涙が浮んできた。その涙を流さないようにと女はじっと上を見たままでいる。色白の丸顔で、ふっくらとしていたが、全体の印象は揺れることのない意志の強さがあった。目が猫のように目尻が上がっていた。形の良い厚い唇は優しさを示していた。朝方は冷えていてコートを羽織っている人さえいた。女もセーターを着ていたが、ジーパンの下は素足で低いヒール靴を履いていた。左手の小指は包帯をしていた。
女はしばらくして、右手でそっと涙をふき取り、顔を正面に向けたので、私は観察などしていませんというように横を向いた。女はなお、厚い唇をぐっと引き締め、大きくため息をつくような動作をして目を閉じた。それで、私はもう一度女を見たが、どうしてもジーパンと白い素足と安っぽい低い靴がなぜかチグハグな気がしてならなかった。
眠ってしまっていたから、二人がどんな会話をしていたのか全くわからない。それにしてもどうして女の目に涙が溢れることになったのだろう。そう思うと不意に、「男と女の間には深くて暗い川がある」と作家の野坂昭如氏が歌っていたのを思い出した。それから女に向かって、「貴女を振るような男はろくな男じゃないよ。あんな男なんかきっぱりあきらめなさい。そう、つまらない、価値のない、くだらない、さげすむことができる限りの言葉で男に見切りをつけた方がいいよ。ああ、最低な男だよ。一瞬でも心を動かされたけれど、それは男がよく見えなかったためだ。あんな男は地獄でも落ちろというものだよ。そのうちきっと貴女を愛してくれる人が現れるさ。絶対にね!」とテレパシーを送っておいた。
それから待てよと思った。そんな別れではなかったかも知れないぞ。たとえば、本当は愛し合っているのだが、別れることで愛を成就することだってある。別れることがお互いのためであるなら、涙を飲んで受け入れなくてはならない。未来のある男と女ならまだもがき苦しむこともあるだろう。しかしある程度の年齢を重ねた男女なら、大人の選択をしなくてはならないだろう。
女はあれからずうーと、同じ姿勢で目を瞑ったままだ。「貴女はまだ若い。幸せになってください」。私はもう一度テレパシーを送るが、女は以前として目を瞑ったままだった。