ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

ふたつの「灯屋・うまの骨」が終わって

2015-12-17 | Weblog
劇団大樹さんが私の作品を上演してくださるようになって10年あまり。
感心するのは観客の動員数だ。私の知る限りでは毎回満席。それも年々その数を伸ばしている。
作品に合わせての楽器の生演奏や、小劇場といえど手を抜かない舞台美術にも毎回驚かされる。
5年間のお休みがあっての今回も、連日満席の素晴らしい舞台だった。

「灯屋・うまの骨」は、劇団大樹20周年記念の書き下ろしとして書かせてもらっているうちに、自分でも上演したくなって、東京と大阪、それぞれのやり方で舞台化してみようということになった作品だ。

同じ脚本でも演出や役者が変われば、舞台は変わる。その違いにも興味があった。
今、ふたつの公演が終わり、どちらもおおむね好評のようで胸をなでおろすと同時に、両方の公演を通して、私自身の欠点も沢山みえてきた。

第一に台本の詰めの甘さだ。
登場人物のキャラクターが、いつのまにか尻すぼみになってしまっている。
とりあえずキャラクターだけ作っておいて、あとで深めようと書き進めるうちに、面倒臭くなってというか忘れてしまってというかほったらかしにしたまま終わってしまうというのが、私のパターンなのだ。
今回、東京の斉藤さんが下宿人たちの背景を加筆せざるをえなかったのもそのせいで、大阪の山口さんも、回想場面を透馬が自分の思い込みを混じえてわたるに説明していくという苦肉の策で、キャラクターたちを戯画化させ、ふくらませていた。今思えば、結構複雑な演出だ。
なんでこんなこと演出が考えなきゃならないんだ、物語は作家のほうがちゃんとわかってないといけないだろうと、山口さんはことあるごとに文句を言っていた。

実際、私には自分の作品がみえていないところがあって、
私はこの作品を、透馬とあかりのラブストーリーとして書きたかったのだ。
あかりを若かった頃の姿で透馬と対峙させたのはそのためだ。
あかりは透馬にかつて好きだった人の面影をみていたし、透馬はマザコンゆえ恋ができない。

しかし山口さんにはそんなの変態親子だ、身代わりにされた透馬がかわいそうだと言われ、
大樹版ではそこは迷いなく親子の愛に変わり、おまけに透馬は喫茶店のひなに秘めた思いを抱いているという、私にしてみたら、え、それってなんか普通っぽくない?ということになっていた。
でもたしかにそういう設定の方が一般の共感は得られるし、斉藤さんがそれぞれの下宿人たちの裏事情を加筆したことで群像劇としての作品世界も広がっていた。


それなのに、そんなセリフ自分なら絶対に書かないとすねてみたり、プロデュースってしんどい、役者って大変、芝居ってお金がかかる、エトセトラエトセトラ。私って出来もしないくせに文句ばっかりだ。反省反省(といいながらすぐ忘れてしまうところが一番の欠点かもしれない)。

ともあれ東京行はとても楽しかった。
会いたかった人にも会えて、新しい目標も出来た。
来年は初心に戻り、また書くことに集中していきたいと思っている。

(写真は、大樹さんの公演が終わったあとの舞台。よくもこれだけ集めたもんです。すごい)









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