愛情の反対は、無視、だそうだ。
愛情の裏返しは、憎悪。
憎悪は、恨みにも変わり、数々の悲劇を生み出す。
・・・
で、わたしは、どうしても、親のことを書きたいわけだが、
親がいる反面、自分も親である。
自分の親を悪く言うとすると、じゃあ、自分はどうなの?となり、
あ、わたしのほうが、もっとダメだ、なんてことになる。
非難をするつもりが、刃がブーメランになって、自分に跳ね返ってくる。
やぶへび。
人に厳しく、自分に厳しく。あるいは、人に甘く、自分に甘く。
一方だけを良く言ったり、悪く言ったり、できない。
セットになっている。
あんなに嫌な親だったから、自分は、反面教師として学習し、良い親になる。
それはそれで素晴らしい。
あんなに最低の親に育てられたんだから、いい人間に育たなかった自分が、良い子育てができるわけがない。
だから、悪い親になっていても、当たり前だ。自分の親が悪い。
そういう考え方もできる。
人それぞれ、考え方、生き方、方向性は、個人の資質によるのでは?
親子は、だいたい似たような路線を踏襲するだろう。
遺伝子や環境が同じようなものだから、そうそう、大きく変わることはないと思われる。
(ただし、時代の変化によって、どこの誰でもが、ライフスタイルや考え方など、変化している)
あるいは、時代の変化に対応でききれない親子もいるだろう。
時には、トンビが鷹を産むこともある。
逆もあるだろう。
例外もあって当然。
良い親に育てられて感謝する人は感謝すればいいし、
悪い親に育てられて嘆く人は、嘆けばいい。恨めばいい。
それで、自分が少しでも救われるなら、楽になるなら。
それぞれのコースをそれぞれに歩む。
途中でコース変更する場合もあるだろう。
編入ってやつ。
有名難関大学が最終学歴であっても、別の学校から編入している人もけっこういる。
大学院とか、すごく目を見張るようなスゴイところであっても、出身校は、そうでもない場合もある。
なにも、見栄えや、ミエをはって、聞こえのいい最終校を選んでいるのではないはず。
おそらく、自然にそうなっただけだろう。
(そういう方々のお話を伺うと、そう感じる)
見てくれよりも、内容重視。
中身の充実に努力していると、外側も変わってくる。
最初に外側からスタートし、あとで、中身を充実させる手もある。
順序はどっちにしても、最終的に、外側も中身も、充実できればそれでいい。
充実できなければ、少しでも充実に向かって努力するか、
あるいは、目標を変えるか、
あるいは、価値観を変える。
「すっぱいブドウ」と言われようがなんであろうが、自分を守ればいい。
自分を守る。
開き直る。
できないものは、できない。
これをしないと、自分が壊れる。
ただし、理想や目標は、たえず抱き続ける。
悪い方向に努力する意味はまったくないが、少しでも、いい方向に向かうよう、
なにかしら努力すると、自分が救われる。
停滞することも、意味がある。
一時期、マイナスに向かうことも、意味がある。
その後の、上昇に向けての助走、スタンバイ、充電期間だと捉えられる。
試行錯誤の一環である。
と、いうことで、悪いことは、良いことへの、助走期間。
いろいろ苦労して、自分の道を見つける。
自分は人間らしい親に育てられ、人間らしい親になっていると思う。
良いとか、悪いとか、そういうくくり、判定、基準ではなく。
感情的になったり、自己ちゅーになったり、抑圧的だったり、制約を加えたり、
上下関係の絶対的権力にあぐらをかいたり、理性を失うこともあるだろうし、
悪い影響を与えることもあっただろう。
自分は正しいと信じていることが、一番正しくなかったりして。
これは、子供のために。あなたのためなのよ、と。
自分では気づかないということが、一番、こわい。
そういうCM「あなたのタメだから」というのが、あった。
あれは、なかなかインパクトのあるCMだった。
価値観の押し付けは、やがて、子供が成長すると、親とは違う、自分の価値観を築く。
影響を受ける価値観も大いにある。
いつまでも、親子がべったり、一卵性双生児みたいに仲良し、っていうのも、
お互いが、なさすぎるのかも。
お互いに核を持ち、仲良し、が理想だけれど、血のせいで、近寄りすぎて、遠慮がなさすぎて、
適度な距離が保てず、うまくいかないこともある。
・・・・
なんだか、だらだらと結果、結論からどんどん遠くなるばかり。
つまり、難しいということだ。
・・・なあんて、適当なまとめをしようとしている、わたし。
用事スタートの時間が迫っているから・・・などと、またまた、いつもの、へりくつを。
わたしの常套手段である。
では、途中で、ブログ放置。
逃げます。
愛情の裏返しは、憎悪。
憎悪は、恨みにも変わり、数々の悲劇を生み出す。
・・・
で、わたしは、どうしても、親のことを書きたいわけだが、
親がいる反面、自分も親である。
自分の親を悪く言うとすると、じゃあ、自分はどうなの?となり、
あ、わたしのほうが、もっとダメだ、なんてことになる。
非難をするつもりが、刃がブーメランになって、自分に跳ね返ってくる。
やぶへび。
人に厳しく、自分に厳しく。あるいは、人に甘く、自分に甘く。
一方だけを良く言ったり、悪く言ったり、できない。
セットになっている。
あんなに嫌な親だったから、自分は、反面教師として学習し、良い親になる。
それはそれで素晴らしい。
あんなに最低の親に育てられたんだから、いい人間に育たなかった自分が、良い子育てができるわけがない。
だから、悪い親になっていても、当たり前だ。自分の親が悪い。
そういう考え方もできる。
人それぞれ、考え方、生き方、方向性は、個人の資質によるのでは?
親子は、だいたい似たような路線を踏襲するだろう。
遺伝子や環境が同じようなものだから、そうそう、大きく変わることはないと思われる。
(ただし、時代の変化によって、どこの誰でもが、ライフスタイルや考え方など、変化している)
あるいは、時代の変化に対応でききれない親子もいるだろう。
時には、トンビが鷹を産むこともある。
逆もあるだろう。
例外もあって当然。
良い親に育てられて感謝する人は感謝すればいいし、
悪い親に育てられて嘆く人は、嘆けばいい。恨めばいい。
それで、自分が少しでも救われるなら、楽になるなら。
それぞれのコースをそれぞれに歩む。
途中でコース変更する場合もあるだろう。
編入ってやつ。
有名難関大学が最終学歴であっても、別の学校から編入している人もけっこういる。
大学院とか、すごく目を見張るようなスゴイところであっても、出身校は、そうでもない場合もある。
なにも、見栄えや、ミエをはって、聞こえのいい最終校を選んでいるのではないはず。
おそらく、自然にそうなっただけだろう。
(そういう方々のお話を伺うと、そう感じる)
見てくれよりも、内容重視。
中身の充実に努力していると、外側も変わってくる。
最初に外側からスタートし、あとで、中身を充実させる手もある。
順序はどっちにしても、最終的に、外側も中身も、充実できればそれでいい。
充実できなければ、少しでも充実に向かって努力するか、
あるいは、目標を変えるか、
あるいは、価値観を変える。
「すっぱいブドウ」と言われようがなんであろうが、自分を守ればいい。
自分を守る。
開き直る。
できないものは、できない。
これをしないと、自分が壊れる。
ただし、理想や目標は、たえず抱き続ける。
悪い方向に努力する意味はまったくないが、少しでも、いい方向に向かうよう、
なにかしら努力すると、自分が救われる。
停滞することも、意味がある。
一時期、マイナスに向かうことも、意味がある。
その後の、上昇に向けての助走、スタンバイ、充電期間だと捉えられる。
試行錯誤の一環である。
と、いうことで、悪いことは、良いことへの、助走期間。
いろいろ苦労して、自分の道を見つける。
自分は人間らしい親に育てられ、人間らしい親になっていると思う。
良いとか、悪いとか、そういうくくり、判定、基準ではなく。
感情的になったり、自己ちゅーになったり、抑圧的だったり、制約を加えたり、
上下関係の絶対的権力にあぐらをかいたり、理性を失うこともあるだろうし、
悪い影響を与えることもあっただろう。
自分は正しいと信じていることが、一番正しくなかったりして。
これは、子供のために。あなたのためなのよ、と。
自分では気づかないということが、一番、こわい。
そういうCM「あなたのタメだから」というのが、あった。
あれは、なかなかインパクトのあるCMだった。
価値観の押し付けは、やがて、子供が成長すると、親とは違う、自分の価値観を築く。
影響を受ける価値観も大いにある。
いつまでも、親子がべったり、一卵性双生児みたいに仲良し、っていうのも、
お互いが、なさすぎるのかも。
お互いに核を持ち、仲良し、が理想だけれど、血のせいで、近寄りすぎて、遠慮がなさすぎて、
適度な距離が保てず、うまくいかないこともある。
・・・・
なんだか、だらだらと結果、結論からどんどん遠くなるばかり。
つまり、難しいということだ。
・・・なあんて、適当なまとめをしようとしている、わたし。
用事スタートの時間が迫っているから・・・などと、またまた、いつもの、へりくつを。
わたしの常套手段である。
では、途中で、ブログ放置。
逃げます。