さて、今日も、真っ白い便箋、羽ペンにインクをつけ、
いや、半紙に、つんと鼻にくる墨を磨って、写経の時間。
脳内読経タイム。
なんて言って、ブログの新規投稿画面をパソコンモニターに映し出す。
と、助走。ウォーミングアップ。
体がなかなか温まらない。脳が、秋風。
時計を気にしつつ、あと15分しかない。
なら、更新しなければいいのだが、これは中毒なので、アップしないと、スッキリしない。
と、無意味に助走時間を延ばす。
その分、持ち時間は、どんどん減る。
・・・
コトバについて。
コトバの違う国での体験。
コトバが通じないというのは、おもしろい緊張感を生み出す。
黙っていれば、普通の人。(→わたし)
他の人から見れば、社会におそらく溶け込んで暮らしているだろうと思われる。
が、じつは、コトバがわからない。言語が理解できない。
読めない、書けない、聞けない、話せない。
脳は、まあ、ちょっとトロめではあるが、動いている。
コトバに関してだけは、完璧にフリーズしている。
なので、挨拶や笑顔、ジェスチャー、回りの反応からの想像力を駆使するしかない。
皆さんの行動を見て判断し、マネをしてみる。
その国の暮らしを深く予習していて、熟知しているのなら怖くもなんともないだろうが、
わたしの場合、予習しない。できない。
土壇場にならないと、動かない、動けない。
とりあえず、にっこり。
会話が出来ないので、顔で会話。
もちろん、深いハナシなど、まったく出来ない。
「ボンジュール」と「オヴォワアール(わたしには、そう聞こえる)」
「こんにちわ」と「さようなら」
これだけで2週間。
なかなか面白い体験である。
・・・
辞書がある。
地図もある。
両方、電子である。
インターネットもある。
そうすると、まったくコトバがわからなくても、どうにかなる。
出かけるには、地図は頼りになる。
手足が少し動くことと、目が見えることが、どうにか助けになった。
もうすぐすると、いまよりもっと高性能な言語変換器が販売されるはずなので、
わたしのフランス語の上達スピードよりも、そっちの発売日のほうが、ずっと早い。
なので、楽観的なわたし。
・・・
日本で、日本語が話せ、聞け、読め、書けることのありがたさ。
通じることの、うれしさ。
でも、親子でも、通じなかったり、世代間の違いや、脳回転のスピードの違いで、
通じないことも多々ある。
コトバの通じない国で、見るもの、聞くものだけを頼りに、全神経を集中させ、
必死で、他の人の思いを読み取ろうとする緊迫したエネルギーは、
コトバが通じる国では、とたんに、ゆるゆるとだらけて、時には、摩擦や誤解すら起こすこともある。
・・・
コトバは、便利なツールである。
つくづくそう感じる。
でも、コトバがないところのコトバに代わるものを理解しようという気持ち、状態、
そこには、思考力というものが必要になる。
思考力は、空気のようなもので、目が覚めている限り、脳が勝手に動く。
ただ、人によって、速い遅い、深い浅い、広い狭いの違いなど、性能、性質が違う。
思考力は、その気になって鍛えれば、どんどん変わっていく。
しかしながら・・・
わたしは、娘に先日、こう言われた。
「おかあさん、考える癖をつけたらどう?」
いつも、あまりにも何も考えていないから。
もうちょっと、考えろ、って。
この娘、何においても、まったくわたしと正反対。
わたしから生まれ、わたしが育てたとは、とても思えないが、こういう現実もある。
いや、半紙に、つんと鼻にくる墨を磨って、写経の時間。
脳内読経タイム。
なんて言って、ブログの新規投稿画面をパソコンモニターに映し出す。
と、助走。ウォーミングアップ。
体がなかなか温まらない。脳が、秋風。
時計を気にしつつ、あと15分しかない。
なら、更新しなければいいのだが、これは中毒なので、アップしないと、スッキリしない。
と、無意味に助走時間を延ばす。
その分、持ち時間は、どんどん減る。
・・・
コトバについて。
コトバの違う国での体験。
コトバが通じないというのは、おもしろい緊張感を生み出す。
黙っていれば、普通の人。(→わたし)
他の人から見れば、社会におそらく溶け込んで暮らしているだろうと思われる。
が、じつは、コトバがわからない。言語が理解できない。
読めない、書けない、聞けない、話せない。
脳は、まあ、ちょっとトロめではあるが、動いている。
コトバに関してだけは、完璧にフリーズしている。
なので、挨拶や笑顔、ジェスチャー、回りの反応からの想像力を駆使するしかない。
皆さんの行動を見て判断し、マネをしてみる。
その国の暮らしを深く予習していて、熟知しているのなら怖くもなんともないだろうが、
わたしの場合、予習しない。できない。
土壇場にならないと、動かない、動けない。
とりあえず、にっこり。
会話が出来ないので、顔で会話。
もちろん、深いハナシなど、まったく出来ない。
「ボンジュール」と「オヴォワアール(わたしには、そう聞こえる)」
「こんにちわ」と「さようなら」
これだけで2週間。
なかなか面白い体験である。
・・・
辞書がある。
地図もある。
両方、電子である。
インターネットもある。
そうすると、まったくコトバがわからなくても、どうにかなる。
出かけるには、地図は頼りになる。
手足が少し動くことと、目が見えることが、どうにか助けになった。
もうすぐすると、いまよりもっと高性能な言語変換器が販売されるはずなので、
わたしのフランス語の上達スピードよりも、そっちの発売日のほうが、ずっと早い。
なので、楽観的なわたし。
・・・
日本で、日本語が話せ、聞け、読め、書けることのありがたさ。
通じることの、うれしさ。
でも、親子でも、通じなかったり、世代間の違いや、脳回転のスピードの違いで、
通じないことも多々ある。
コトバの通じない国で、見るもの、聞くものだけを頼りに、全神経を集中させ、
必死で、他の人の思いを読み取ろうとする緊迫したエネルギーは、
コトバが通じる国では、とたんに、ゆるゆるとだらけて、時には、摩擦や誤解すら起こすこともある。
・・・
コトバは、便利なツールである。
つくづくそう感じる。
でも、コトバがないところのコトバに代わるものを理解しようという気持ち、状態、
そこには、思考力というものが必要になる。
思考力は、空気のようなもので、目が覚めている限り、脳が勝手に動く。
ただ、人によって、速い遅い、深い浅い、広い狭いの違いなど、性能、性質が違う。
思考力は、その気になって鍛えれば、どんどん変わっていく。
しかしながら・・・
わたしは、娘に先日、こう言われた。
「おかあさん、考える癖をつけたらどう?」
いつも、あまりにも何も考えていないから。
もうちょっと、考えろ、って。
この娘、何においても、まったくわたしと正反対。
わたしから生まれ、わたしが育てたとは、とても思えないが、こういう現実もある。