蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

眠たい話

2011-06-19 | 人生

赤裸々に自分のことを綴りたい・・・
と思っても、本当に重大なことや、ひとに知られたくないことは、まったくと言っていいほど綴ってない。
というか、綴る気がない。
綴ったところで、自分は楽しくない。

これは、一種の欺(あざむ)き?
いえ、自己防衛です。

こころの中に、しっかりと、しまいこんで、門外不出。
仮に「大切な何か」があったとしても、世の中の誰にも、どんな身近な肉親にも、
どんなに解り合えた大親友にも(いませんが)、一生、表さない。
それは、幼い頃からの、わたしの信条。

自分と向かい合うために書くこともあるが、
実際のところ、自分にとっちゃ、半分どーでもいいことを、ちゃらちゃら書いている。

刺身では食べられない鮮度のものを、濃い調味料で味付けして、ごまかしているかんじ。
沿岸地から遠く離れた内陸地の中華料理というかんじ。 (こってりしていて、好きですが)
ぷりぷりした海鮮料理とは、ほど遠い。
血が滴り落ちる、生肉感は、ない。
シュワツと、ほとばしるフレッシュ感もない。

あるとすると、納豆みたいな、腐ってるんだけど、食べられる、発酵食品みたいなもの。
ネバネバ、とろとろ系?

ヨーグルト、チーズ、味噌、キムチ、・・・
けっこう、美味しいじゃない?
鋭い一突きをしているときも、まれにあるかも?
それは、狼が満月の日に、吠えるとき。
と思いきや、たんに腐っているだけで、おなかをこわすこともあるだろう。


それに、わたしは力もないくせに気分屋さんなので、
「書きたいこと」と、「書きたい気分」と、「書ける状況」が、重なるときに、
はじめて、自己満足できるものが書ける。(人にどう映るかは、別として)

これは、外出時の洋服選びに似ている。
その日の天候、温度、行動予定、会う人、気分、いろんな要素が重なり、服を決める。
が、最近は、同じ服ばかり着ている。
佃煮にするほど服があるというのに。

これは、老化現象の一部で、見た目より、快適性を重視しているから。
おしゃれは、見た目を優先し、どれだけ苦痛や、不快さに耐えることができるか、踏み絵みたいなもの、
そういう忍耐度チェック説があるが、わたしは、いの一番に躊躇(ためら)いなく、踏み絵を踏んでいる。

というか、他人は、わたしの服など、まったく見ていない。
わたし自体を見ていない。
本人が思っているだけ。
それを「こだわり」だと、おめでたく思っていても、実際は単なる「自意識過剰」。

これは、ファッションだけに限らないことだろう。


こんなことを書いて、こんな秘密をもらして、大丈夫なんだろうか・・・と思うブログもあるが、
彼ら、彼女らにすると、べつに、どおってことない内容なんだろう。
視点が違う? 価値観が違う? 生き方が違う? 住む世界が違う?
というか、あまり深く考えてないんだと思う。

女性として、一番大切なものを、売ったり買ったり、商品として捉える感覚は、わたしには理解できない。
(商品化は、女性だけでもないけれど、絶対数から言えば、女性が断然、多い)
この世の中、そんなことを言うのは、時代遅れなんだろうか。
アタマの古い、脳ミソが硬直した「シーラカンス」ですね、と、冷ややかな目で見られるだろうか。
(太古の昔から、人間の職業として最も古いものは、春の売買なので、今に始まったことではないが)

結婚だって、ひょっとすると、バージョンが違うだけ、包装方法が違うだけのケースもあるかも知れない。
社会制度、こころ、肉体、お金、これらがキーワード。
(年齢が上がると、肉体は、カット傾向)
それぞれが特化されると、
性の商品化は、お金と肉体。
非婚パートナー(カップル)は、こころ。
結婚は、社会制度、絆。


プライドは、ひとそれぞれ、顔が違うように、違うだろう。
世間のモノサシで測れない、独自のモノサシもあるだろう。

もって生まれた能力、性質、DNA、育成環境、背景、努力、意識、まわりの人々、
そういうことが複合的に合わさって、一人の人間が形成されている。

わたしは、究極は、出会いにあると思っている。
価値観を構成するものの土台は、人や、体験との出会い。
親や家庭は、まず、その第一歩。ただ、これは、自分では選べない。
出会いというには、選択肢がなさすぎる。
が、避けることができない強力なもの。

親の教育方針によって歩む道が方向づけられる。
学校は、人生のコースを歩き始める、最初の第一歩。
人格形成の発達段階で出会う学友たちの影響は、とてつもなく大きい。
また居住地近隣で出会う人々にも影響を受ける。

さらに成長するに従い、
実際に会ったことがない人や、経験したことがないことでも、書物や、映像などで知ることができる。
映像は、直接的で訴えやすく便利だが、( YouTubeは、国をも滅ぼす)
知の部分で脳を活性化させるには、文字、言葉は重要な役割を果たすと思う。
影響力は無限大。

衝撃を受けたり、感動したりするのは、実体験や、未知への旅、映像、動画のインパクトに勝るものはないが、
深く思考したり、ものごとを探ったり、追究したり、想像したり、
細かく説明したり、微に入り細に入り補足して伝えたりするのは、言葉や文字の力は大きい。

影響を受ける人と出会うことが、人生を左右するポイントかも知れない。
すばらしい人に出会っても、自分とのギャップが大きすぎれば、素通りし、まったく興味を覚えないだろう。
人間は楽な方向に、流れる。

類は友を呼ぶ。
複数の自分と同じような人と接していると安心できる。
居場所を見つける。

傷口をなめ合い、上昇しようとする人を引きずり下ろすグループもあるだろうし、
励まし合い、上昇し合う、高め合うグループもあるだろう。
その人の性質や情況によるだろう。

わたしは、憧れたり、理想とする人がいると、そのレベルに近づくのは無理としても、
少しでも、ほんの一部でも自分に取り入れたいと願う。
逆の場合もあり、良くないと感じることは、自分も、気づかず、やっているかも知れないと思うので、
極力、気をつけようとする。


アタマではわかっていても、まったく価値観が異なる場合がある。
まるで理解できない人々もいる。

違うことばかりではなくて、なかには、人間として、共通する価値観や感性、感覚もあるはずなんだが、
それが見出せない。
そういう場合は、どうすればいい?

理解できないのは、お互いに、だろうけれど。


こんなにいい歳をしていて、まだ、こんなことを言っている、わたし。
だから、まだ、いろんなことを学び、吸収する余地は、大。
良く言えば、「柔軟性がある」、悪く言えば、「未熟」、ニュートラルに言えば、「未完」。

悟りの境地に達すれば、理解できるのだろうか。
達観する頃には、あの世で微笑んでいることだろう。

 

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あの世でも、まだ、理解に苦しんでいるかも知れない。

それより、わたしの回りのひとたちは、わたしのことが理解できないかも知れない。

いいえ、それほど関心を示されていない。それが、正解だろう。(ファッションと同じ)

理解したければ、そして、理解してほしければ、お互いに努力が必要であることは、間違いない。

 

ここまで、お読みになられた方、おられますか?
あらら、おられない・・・あ、そこに、おひとり?
ありがとうございました。ほんとうに、お疲れ様でした。