時雨忌は、11月の第2土曜日、大津市の義仲寺で行われる。松尾芭蕉が世を去ったのは、元禄7年10月12日、長崎に向かう旅の途中、大阪で病に倒れ、多くの弟子たちに見守れながら亡くなった。その日を時雨忌として、墓のある義仲寺で、法要と句会が行われる。この日は旧暦であるから、新暦に直せば11月ということになる。芭蕉は
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
の句を残しているが、この句が辞世と言われている。この句を詠んだのは、亡くなる前の8日で、病中吟となっている。そして芭蕉は、義仲の墓のある大津の寺に送り、義仲と自分の墓を並べ建てるように、遺言した。
芭蕉は木曽義仲という武将が好きであった。義経も好きで、奥のほそ道の旅で、平泉を訪れたのも、その墓に参拝することが、目的のひとつであった。だが、好きな武将であるが故に、その隣に墓を並べよ、という意図は弟子たちにもよく分からなかった。そのため、翁は湖南の風光明媚をことのほか好まれたので、その地で眠りたいのだろうと解釈していた。
辞世といわれる枯野の句を読んでみると、病で動けなくなっているが、夢のなかでは枯野を駆け回っている。辞世というよりも、死にきれない無念さが、句に出ている。
考えて見れば、木曽義仲も、志しなかばにして死を遂げている。そうした、無念の者同士が墓を並べて、あの世へと旅立ちたい、それが死に臨んで芭蕉が考えたことであったのではないか。
義仲寺には、保田与重郎の墓もある。中谷孝雄らとともに「日本浪漫派」を結成した作家で、芭蕉の研究にも熱心であった。中谷孝雄は、晩年、義仲寺の住持となり、芭蕉と保田のあの世での安寧を祈った。