梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

粋な別れは

2016-05-02 10:10:12 | 雑記
グラシェラスサーナのアルバムをぼんやり聞いていたら裕次郎の「粋な別れ」が掛って来た、彼女の歌にはガソリンスタンドでカーステレオ用にでなんとなく買った時からファンである、当時はまだ若くもう一人のギタリストの女性と演奏していた、
日本の歌謡曲や子守唄等をカバーしていたのだがCDを買った時カンツオーネを越路吹雪が日本語で歌っているのを更にカバーすると言うややこしい曲が入っていて2番の歌詞を原語で歌うと言うのが入っていたのだがその後にフォルクローネが2曲位続いてこのうち一つが彼女のオリジナルかな?と言う曲が有ったのだがやはりかなりのびのびと歌っていて素晴らしかった、
今度買ったアルバムには「舟歌」と「恋人よ」が入っているが前回と重なったのに「回り灯籠」と言うのが有ったがこの曲は彼女のアルバムで知った、前回のCDを無くしてしまったのだがその中に有った「狂った果実」が好きだったのだがネットで見ても見つからないのが実に残念だ。
「粋な別れ」の歌詞に「恋の終わりなんか解りはしない、泣かないで、ゞ粋な別れをしようぜ」と言うセリフがあるが一方的に別れを切り出されたらそうはいかないだろうな、
芥川龍之介の朱儒の言葉の中に「私が彼女を好きになった時彼女も私を好きになった様に、私が彼女を嫌いになった時、彼女も私を嫌いになってくれれば良いのに」と言うのがあったが相思相愛が中々難しい様に一方が飽きて上手く相手が飽きてくれればと言うのはそうは無いのかもしれない、まあそれでも結構付いたり離れたりして居るのだから上手くいくのかもしれないな、
結婚するまでは両眼を大きく開けて結婚したら片目をつぶると言うヨーロッパの格言が有るが大抵は「恋は盲目」で結婚した後は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言う事の方が多い、まあ別れた後別のパートナーと暮らして見て「前の方がマシだった」事もあるから「袈裟まで憎い」も「恋の反動も盲目」なのかもしれない、
どだい高度成長期の子供達は「我慢する」と言う事に慣れて居ない気がする、我慢は「理不尽な事」に対する我慢と自我が通らない事に対する我慢と言うのが有るが「自我が通らない事」は社会に出れば幾らでもある、自分以外は全部他人なのだから相手の自我を認めれば当然「我慢」しなければならない、我儘と言う言葉は「我が思う事を儘にする」と言う事で世の中はそうはいかない、今の社会は金が力を持ってしまい金さえあれば大抵の事は「我がまま」にしているが廻りが頭を下げて居るのは「金」に対してだけであって金を使う輩に頭を下げて居るだけである訳では無い、まあ恐らく本人もれは気付いていて心から満足は出来ないでいるのではないだろうかと思う、まあ金を「我がまま」に出来ない輩の負け惜しみでもあるが


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