梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

スポーツカブ

2010-05-24 14:40:25 | 日記
私の生まれ育った所は静岡県の中央部、海からはかなり離れた山の中だった、しかしそれでも静かな夜半には遠くから波の音が聞こえる事も有った、雲の厚い風の無い日で親父が「雲に反射してるんだろ」と言っていたのを思い出す、今よりずっと寒かったきがするが雪は降った事は無い、冬になると真っ白に霜が降りて橋の欄干や稲を干すはぜの竹に着いた霜を集めて遊んでいた、私が中学に上がった頃本田技研が売り出した「スーパーカブ」が爆発的に売れて同じ様に鈴木自動車が50ccのバイクを売り出してそれまでブリジストン自転車が小さなエンジンを実用自転車につけてゴムローラーをリムに押し付けて自動自転車として売っていたのをあっという間に凌駕してしまった。ホンダは125ccと250ccでも独占的なシェアを確立しつつあった、ベンリー号と言うバイクと少しおしゃれにランプ廻りが角ばったドリーム号と言うバイクがあり、このドリーム号はやはり爆発的な人気に成った「月光仮面」が乗って悪と戦っていた、しかし何と言っても凄かったのは「スーパーカブ」で頑丈高性能で且つ廉価だったせいであっという間に広まっていった、実用としても広まったが此れに火を点けたのは中学を卒業した程度の若者達だった、未だこの頃は16歳から50cc以下には許可制で乗れたのであっという間に広まったのだ、此れを見逃すわけも無くホンダはスーパーカブのデザインと性能を実用から少しだけ変更し「スポーツカブ」と言う名で売り出したのであるが、意外とこれは売れなかったらしい、私が中学2年に成った頃で、この頃は未だ進学組みと就職組みに2年からクラス編制が分けられていて私は就職組みだったのだが本田技研が静岡の中学(若しかしたら遠州だけだったのかもしれないが)就職クラスに実習用の教材としてこのスポーツカブを1校に1台づつ寄付をしてくれたのだ。丁度私の学年が最初の学年となって恩恵を受ける事に成った、先ず校庭で全員が1人づつ運転し、その後此れを分解する事に成った、今考えると技術の先生がそれ程詳しいわけも無くどう言うコンセプトで始めたのか解らないが兎に角「ばらして見よう」と言う事に成った、校庭に新聞紙を敷き詰めてバイクの外側から外して行くのである、此れを後で解らなくならない様にと順番に並べてゆくのだが最終的にはエンジンまでばらしたら驚くほど大量の部品である、当然だが時間は足らずそれらを一旦講堂に移して後日組立てた訳だが大勢の生徒が居るので分解組みと組立て組みに分かれて作業をする、分解組みと相談しながら組上げてゆくのだが組み上がってみるとドライミルクの缶に半分位の部品が残ってしまった、先生に聞いても当然解らない、「試しにエンジンを掛けてみろ」と言う事に成った、未だセルモーターは無くキック掛けである、此れが何と1発で掛かってしまった、「試しに乗ってみろ」と言う事で校庭を最初は恐る恐る走ったが何の問題も無い、校庭から出て田んぼの中の道や坂の有る里山の道を走って来たが何の問題も無い、しかし「何の問題も無い」のは大変な問題である、先生と相談の結論は「残った部品は無かった事にして捨ててしまおう」と言う事に成ったがさすがに捨てるのは不味かろうと技術室の棚の上にそっと置いておく事に成った、そのままこの教材は下級生に引き継がれていった訳だがその後どうなったのだろう


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