私は画集を眺めるのが好きである。
新潟大学の学生であったときに、初めてピカソの複製画に出会ったような気がする。それは「これが絵画なのか?なんで評価がこんなに高いのか」理解できず、私にとっては「事件」だった。それ以来、ピカソに「困感」させられ、それが今まで続いてきた。
ピカソは長命であった為に作品数が著しく多い。
関連性が乏しいバラバラの主題と様式を展開させているだけの画家に見えた。
ピカソは生とエロティシズムを超越して、20世紀最大の傑作絵画の一つとされる「アヴィニョンの娘たち」に到達した。確かに、この絵をじっと見ていると女性たちの美しさが湧き出してくる、様な気がしてならない。こういったのを名作と言うべきなのだろう。
それもつかの間、次々と変化変容を繰り返しながら、ピカソはさらに未踏の実験へと向かう。
そしてあの神話的大作「ゲルニカ」が誕生した。
パリでゲルニカ空爆(1937年4月26日)の一報を受けたピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館で展示される予定の壁画を製作していたが、急きょテーマを変更してゲルニカ空爆を題材に取り上げ、縦3.5m、横7.8mの大作を一月余で完成させた。大作「ゲルニカ」の存在でゲルニカ空爆が広島長崎の原爆投下と共に、永遠に人類に記憶されることになる。
このように有名な作品は画集とかで見ることが出来るが、それでも全て網羅できるわけではない。
多数の作品群の一部ではあるが、今回の様なテーマを絞った展覧会を通じて観る事が出来るのは嬉しいことである。
入場時の資料として、出展されたリスト票をもらうことができた。
しかし、観る者としてはコレだけでは不足である。作品そのものの画像は望み難いが、会場内にパネルで掲示してるピカソの生涯とか、作風の変遷を記述した説明文くらいは資料として作成してもいいのではないだろうか。字数が多く、字も小さい。とても会場内で十分に読むことは出来ない。
スタッフに聞いたところ、1日わずか100人程度の入場者数だと言う。実に勿体ない。
新潟大学の学生であったときに、初めてピカソの複製画に出会ったような気がする。それは「これが絵画なのか?なんで評価がこんなに高いのか」理解できず、私にとっては「事件」だった。それ以来、ピカソに「困感」させられ、それが今まで続いてきた。
ピカソは長命であった為に作品数が著しく多い。
関連性が乏しいバラバラの主題と様式を展開させているだけの画家に見えた。
ピカソは生とエロティシズムを超越して、20世紀最大の傑作絵画の一つとされる「アヴィニョンの娘たち」に到達した。確かに、この絵をじっと見ていると女性たちの美しさが湧き出してくる、様な気がしてならない。こういったのを名作と言うべきなのだろう。
それもつかの間、次々と変化変容を繰り返しながら、ピカソはさらに未踏の実験へと向かう。
そしてあの神話的大作「ゲルニカ」が誕生した。
パリでゲルニカ空爆(1937年4月26日)の一報を受けたピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館で展示される予定の壁画を製作していたが、急きょテーマを変更してゲルニカ空爆を題材に取り上げ、縦3.5m、横7.8mの大作を一月余で完成させた。大作「ゲルニカ」の存在でゲルニカ空爆が広島長崎の原爆投下と共に、永遠に人類に記憶されることになる。
このように有名な作品は画集とかで見ることが出来るが、それでも全て網羅できるわけではない。
多数の作品群の一部ではあるが、今回の様なテーマを絞った展覧会を通じて観る事が出来るのは嬉しいことである。
入場時の資料として、出展されたリスト票をもらうことができた。
しかし、観る者としてはコレだけでは不足である。作品そのものの画像は望み難いが、会場内にパネルで掲示してるピカソの生涯とか、作風の変遷を記述した説明文くらいは資料として作成してもいいのではないだろうか。字数が多く、字も小さい。とても会場内で十分に読むことは出来ない。
スタッフに聞いたところ、1日わずか100人程度の入場者数だと言う。実に勿体ない。