最近は身辺をいろいろ整理している。次々と廃棄するものは多い。意外と残しておくべきものはないものだと思う。
その中で自分にとって財産だと思うのは身体と精神と時間であることを自覚する。生きていくためにほかのものも欠くことは出来ないが、現状ではそれほど不足する現状ではない。身体と精神と時間が大切だなどと言えるのはとても恵まれていることである。一方、これらの大切さを認識していないとすれば実にもったいないことでもある。
■身体は自分だけの宝である。
「他、これ我にあらず・・」はある高名な僧の言葉であるが、この言葉は自己と他人との身体の関係についても100%当てはまる。他人が代わって食事をし、排泄してくれる訳でない。絶対に有り得ない。従って自分にとって自分だけの究極の持ち物、宝物・財産と言っていいだろう。言い換えれば、自分が財産と思っているものは、家族であろうと金品であろうと、結果的に真の財産とは言えない。私にとって自分の身体はかけがえの無い財産である。だから、大切にしたい。私の持ち物、道具などは大した価値はない。
よその方の考え方など分からないし、言及したくないが、医療関係者の目から見てもっともっと大切ににするべきでないだろうか。
■もう一つは精神活動。
精神活動も私自身だけのもので、それ以外ではあり得ない。個別の人間同士はどんな状態にあっても、「他、これ我にあらず・・」である。私は自分以外の人と感情的に共通の状態はあり得ない。近似の状態ですらあり得ない。すなわち、自分以外の人間との間に共感などもあり得ない、と割り切って来た。
医学教育の中に於いても、医師は患者と共感し、寄り添わなければならない・・などと指導されるが、それは100%無理。そんな中で医師として私がやってきたことと出来たことと言えば、患者の言葉に耳を傾けたことだけでしかなかった。その傾聴にあたっては、経験と訓練によって体得した「和顔愛語」の技術が役にたった。
私の精神活動も大したことをしてきた訳ではないが、日常つらつら考えていることを日記として文章に表して来たことは小さな果実の一つである。そのうちの10数年分はこの徒然日記である。見直せば自分が当時何を考えていたのか、生きてきた毎日の足跡を確認できる。
いろいろな考え方はあろうが、私に精神活動に大きな障害が生じた際にはいのちの維持を目的にした治療は望まない。身体的障害を含めてその書面は用意している。
その中で自分にとって財産だと思うのは身体と精神と時間であることを自覚する。生きていくためにほかのものも欠くことは出来ないが、現状ではそれほど不足する現状ではない。身体と精神と時間が大切だなどと言えるのはとても恵まれていることである。一方、これらの大切さを認識していないとすれば実にもったいないことでもある。
■身体は自分だけの宝である。
「他、これ我にあらず・・」はある高名な僧の言葉であるが、この言葉は自己と他人との身体の関係についても100%当てはまる。他人が代わって食事をし、排泄してくれる訳でない。絶対に有り得ない。従って自分にとって自分だけの究極の持ち物、宝物・財産と言っていいだろう。言い換えれば、自分が財産と思っているものは、家族であろうと金品であろうと、結果的に真の財産とは言えない。私にとって自分の身体はかけがえの無い財産である。だから、大切にしたい。私の持ち物、道具などは大した価値はない。
よその方の考え方など分からないし、言及したくないが、医療関係者の目から見てもっともっと大切ににするべきでないだろうか。
■もう一つは精神活動。
精神活動も私自身だけのもので、それ以外ではあり得ない。個別の人間同士はどんな状態にあっても、「他、これ我にあらず・・」である。私は自分以外の人と感情的に共通の状態はあり得ない。近似の状態ですらあり得ない。すなわち、自分以外の人間との間に共感などもあり得ない、と割り切って来た。
医学教育の中に於いても、医師は患者と共感し、寄り添わなければならない・・などと指導されるが、それは100%無理。そんな中で医師として私がやってきたことと出来たことと言えば、患者の言葉に耳を傾けたことだけでしかなかった。その傾聴にあたっては、経験と訓練によって体得した「和顔愛語」の技術が役にたった。
私の精神活動も大したことをしてきた訳ではないが、日常つらつら考えていることを日記として文章に表して来たことは小さな果実の一つである。そのうちの10数年分はこの徒然日記である。見直せば自分が当時何を考えていたのか、生きてきた毎日の足跡を確認できる。
いろいろな考え方はあろうが、私に精神活動に大きな障害が生じた際にはいのちの維持を目的にした治療は望まない。身体的障害を含めてその書面は用意している。