大佗坊の在目在口

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足柄怒田 朝日観音堂から珠明寺

2019-12-11 | 掃苔

中伊豆の最勝院にある龍若丸と伝わる五輪塔は上杉憲政の子龍若丸か、上杉憲実の子、憲忠(幼名龍若丸)の五輪塔かはっきりしなかったが、南足柄の怒田(ぬだ)の珠明寺(しゅめいじ)に上杉憲忠と伝わる墓があるというので出かけた。小田急新松田駅から西に酒匂川を渡って約6k、アサヒビール足柄工場への途中に怒田(ぬだ)という場所がある。北山鮎沢川と丹沢湖河内川との合流点から下流が酒匂川となるが、この川の右岸に位置し、昔から水害の多かった地区だという。現在、怒田の上杉憲忠の墓があるという珠明寺を訪ねた。怒田という地名も読めなかった。やはり酒匂川の氾濫から来た地名なのだろうか。怒という文字は、何となく怖ろしい感じを持っていたが、この漢字は奴に心の二分割だという。「漢字を分解して考える際に、分割の仕方を間違えると、恐ろしい解釈をしてしまう事がある」という。今まで大きな勘違いをしていたようだ。珠明寺に行く前にGoogle mapで見つけた朝日観音堂に寄る。
 
 
今の観音堂は江戸時代中期の建築で、茅葺の屋根や床下の亀腹と呼ばれる土壇に特徴があるという。30年ほど前に萱替えと建物一部補修されたが、現況、観音堂の周りをロープで囲い、いまにも崩れ落ちそうな茅葺の屋根が痛々しい。観音堂の裏に藤原範茂従者の墓と伝承のある宝篋印塔があるという。気が付かなかったのは残念だった。このお堂の境内に天下和順 日月清明との間に変わった書体の「南無阿彌陀佛」碑、木食鑑正碑といくつかの石塔があった。回り道をして慶傅寺経由で珠明寺へ向かう。お堂から慶傅寺までは歩いて10分程で着く予定だったが途中、道を間違えて大汗をかく。
  
 
慶傅寺から緩い下り坂、10分程度で珠明寺に着く。新編相模国風土記稿に「月光山と号す、臨済宗鎌倉円覚寺末。寺伝に上杉安房守憲基(法名宗徳院心無悔公応永廿五年正月三日三十四歳卒)カ為其子安房守憲実(法名高岳長棟庵主応仁元年二月六日卒す)。憲基憲実及ひ其子右京亮憲忠(法名興雲院大韶釣公享徳三年十二月廿七日卒す)。三人をもて共に開基と称す。開山は妙薫」さらに「寺地旧は村内(班目村)下河原に在けるか宝永五年の洪水に流亡せしかは少時怒田村に移住し享保十三年旧地に復せしに同十九年又水殃に罹り境内盡く潴りしかは再怒田村に移住し延享元年官に請て許可を得、古境内と今の寺地と相替られ。寺地怒田村内にあれと、尚当村に属せり」とあり、酒匂川の氾濫により何度か寺を移転し延享元年(1744)、現在地に寺地を定めている。
 
 
 
寺の入口に「伝 上杉憲実一族の宝篋印塔群 (南足柄市重要文化財)」の石柱があり、本堂の裏手に上杉憲基、憲実、憲忠三代の墓と伝わる宝篋印塔があった。憲基は上杉憲定嫡男、二十七歳で没し、越後守護上杉房方の子、憲実を養子とする。憲実、山口の大寧寺で没した。憲実の子で関東管領を継いだ憲忠は享保三年(1454)、鎌倉公方足利成氏により鎌倉にて謀殺された。珠明寺が再び怒田に移転したのが享保十九年(1734)、憲忠が没して二百八十年後に足柄怒田に移転したことになる。天保十二年(1841)成立したとされる新編相模国風土記稿に上杉三代の墓について記載が無いのは何故だろうか。説明板によると「石塔は向かって左側から憲基、憲実、憲忠の三代の管領の墓といわれています。向かって左の墓は相輪の一部が欠けて、中央と右側の塔の相輪はなくなり、五重塔の空・風輪の部分がのせられています」とあった。現状は整えられた関東形式の石塔が並べられており、古い三代の宝篋印塔の写真とも異なり、苦労して古い石塔を組替えたようで、どれが上杉憲忠の宝篋印塔だか判らなかった。

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