金沢市内は妙に方角と距離感がとれない町である。町の中心、お城は金沢駅の東南の方向、約2kにあり、小立野台地の先端に浅野川と犀川とに挟まれたほぼ真ん中に築かれている。
城を中心に道が八方に伸び、菱形に城下町が形成されている。昔は地図の上方は北と決まっていたが、観光地図は見やすいように描く為か、南北が上下逆であったり、東西が反転していたり、そのうえ一方交通の路も多く、よけい方向感覚が無くなってしまう。
金沢城は浅野川と犀川を自然の濠に見立て、川の外側に三つの寺院群を移築し、城の東側の卯辰山には卯辰山山麓寺院群、南東の小立野台地には小立野寺院群、南の寺町・野町にある寺院を寺町寺院群と呼び、城の備えとしたという。
この寺町寺院群に加賀八家の対馬守家と呼ばれる前田家の墓所が玉龍寺に、同じく加賀八家の長家の初代・六代・七代・八代の墓が開禅寺にある。(九代以降は前田家三代利常公と九代重靖公の墓所の北側、野田山芝山地区)
前田長種家の菩提寺玉龍寺に行く。タクシーで「寺町の玉龍寺」にと云うと、運転手の方が首をかしげる。七十近いお寺さんがあっては知らないのも無理はない。お寺の在る町名も間違っていた。地図にあった沼田の交差点に行って貰った。ここからが大変だった。お寺の入口が判らず、細い道を行ったり袋小路をバックで戻ったり運転手も大変だった。
前田長種は織田信長家臣だった前田長定の嫡男で利家の娘、幸を正室とし加賀前田一門に列した。長種家は荒子城主尾張前田氏とは別系統の下之一色村城主前田氏で系図ははっきりしないが、前田仲利の嫡男家とも言われている。
長種の子直知の最初の正室が稲葉一鉄の孫おなあ(祖心尼)、一鉄の兄弟、重通の娘おあんが嫁いだ先が斎藤道三の孫で叔父が明智光秀になる斎藤利三で、その娘が三代将軍徳川家光の乳母となったおふく(春日局)、おなあが再婚したのが蒲生氏郷重臣町野繁仍の子幸和で、その孫娘振(自証院)は家光の側室となっている。最後の会津武士と称され、小説の主人公にもなった会津藩士町野主水重安の祖、町野重成は町野繁仍弟の町野秀俊の孫にあたる。
東京牛込済松寺 祖心尼墓
玉龍寺は曹洞宗の寺院で山号は大亀山、開山は桂厳慧芳大和尚、開基は菅原泰学長規(前田家家老前田対馬守長種祖父)としている。山門は薬医門で脇塀付桟瓦葺と云うそうです。
左)前田氏先祖安楽院殿、二代玉龍寺殿、その配天桂院、三宝塔之銘
右)手前から前田長種墓、長種室墓、二代直知墓
玉龍寺の前の道を南に250m位下がると開禅寺に着く。
開禅寺の勧請開基は大乗寺二世瑩山紹瑾大和尚、開基は加賀八家の一つ長家元祖長谷部信連、山号は華嶽山、加賀八家長家の墓所の一つで前田家二代利長と共に金沢に移転したと伝わる。長連龍の娘で、利長の幼女となり、前田美作守直知の継妻となった久香院(求光院)の墓もあるという。
六代長善連墓 右)七代連起・室墓
八代連愛・室墓 右)長家墓域
野町のお寺を巡った日は30度を超える猛暑日で他のお寺さんを廻る元気もなく、駅へ帰るタクシーを待つ間、開禅寺の前の龍淵寺の山門の石段で休ませてもらった。
この開禅寺の寺域全体が金沢市の保存樹林になっているそうで、涼しい風が吹き抜けていた。
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