大佗坊の在目在口

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兵学寮職員になった旧会津藩士

2011-01-14 | 會津
海軍操練所として教育を開始したのが明治二年(1869)、翌年同所は
海軍兵学寮と改称し、兵学寮内則を定め、教授掛所、専業学舎掛、週番、
記録掛、会計掛の五つの官員事務に分けている。

明治三年、102條からなる海軍兵学寮規則並びに126條の内則を定め、
同年(1870)七月、兵部省官制改革により兵学寮の官制を改めている。
兵学頭(四等)、権頭(大教授・五等)、助(中教授・六等)、
権助(少教授・七等)、大属(大助教・八等)、権大属(中助教・九等)、
中属(少助教・十等)、権中属(十一等)、少属(十二等)、権少属(十三等)、
十四等の区分にした。

明治四年末兵学寮職員は兵学頭・中牟田倉之助、兵学助・佐々倉桐太郎義行
以下百十名。ちなみに軍艦操練所翻訳方だった近藤真琴は海軍中佐兼兵学
中教授となっている。長崎海軍伝習所や軍艦操練所出身者が幹部を占めたが
この職員のなかに金子忠之進豊純(生徒取締役兵学権中属)、安藤熊之助伊佐
(書記掛兵学権少属)、橋爪大助保幸(十三等出仕)、三名の旧会津藩士がいた。

金子忠之進は元会津藩士御小姓衆100石で、戊辰ノ鳥羽伏見の戦いでは、
会津藩主容保公について大坂城に詰め、その後、箱館で遊撃隊としで戦い、
明治四年八月兵学寮出仕する。明治八年一月、海軍少秘書海軍十等出仕と
昇級している。

国産方下役(江戸藩邸中屋敷)で戊辰九月二十二日午前十時、鈴木爲輔
(5石5斗2人扶持大賄役)と北追手門に白旗を立てたのが安藤熊之助。 
明治四年六月「右者筆生見込之人物ニ付出付被仰付」と兵学寮職員に採用、
同年七月十日、少属へ昇級、明治九年十二月十等出仕、明治十二年七月の
公文書には四等属として出てくる。

橋爪大助(大壽毛)は明治五年五月には権中属となっている。明治十年二月、
熊本百貫村沖にて狙撃され負傷、三月長崎病院にて死去した旧会津藩士海軍
少尉補雪下熊之助の家族、長崎から福島塩川までの帰郷旅費給付の請願書を
提出したのが当時海軍省八等属だった橋爪保幸で十二年十二月、七等属に
なた。明治十二年十二月より病気で休職、一旦は完治して復職したが明治
十三年六月五日死去、子供保幸より届出がなされた。橋爪保幸の養女とした
錦(きん)は松永雄樹(明治七年兵学校卒)と明治十三年二月結婚、松永雄樹は
海軍中将で退役している。この雄樹の養子になったのが海軍少将となった松永寿雄。
松永家は戦国武将、松永弾正久秀の家系で雄樹は十一代目だという。

参考
明治四年末現在海軍兵学寮職員

兵学頭  中牟田倉之助、
兵学助  佐々倉義行、

事務掛
兵学大属  河野道成、  前田正之、
兵学権大属 安達重典、
兵学中属  多賀元斌、
兵学権中属 谷 信鋭、  斯波二郎義武、
兵学少属  吉村里好、  三村正為、
十四等出仕 應守直四郎則信、
会計掛
十二等出仕 中村致敬、  
十三等出仕 阿部善三郎定次、
生徒取締役
兵学中属  渋谷直武、  
兵学権中属 金子忠之進豊純、  道家雅道、
兵学少属  吉井源七兵衛友健、 掘  一、 北村快蔵武廣、
書記掛
兵学権中属 星野秀盛、     館  徳、
十一等出仕 大柳金平俊平、  
兵学少属  杉山為舜、     野一色義種、
兵学権少属 村井長明、     安藤熊之助伊佐、
十三等出仕 周東発三通正、   橋爪大助保幸(大壽毛)、
製図掛
兵学権大属 岩橋教章、
兵学少属  三浦義路、中川義忠、狩野重之辰信、橋本勝国雅邦、
兵学権少属 林 雅邦勝静、狩野勝年雅喬、狩野勝玉昭信、伊藤貫太郎雅良、

教員
海軍中佐兼兵学中教授  近藤真琴、
海軍少佐兼兵学少教授  
田中義門、本山 漸、麻生武平、長田正言、栗津高明、戸倉帰一祐之、
海軍大尉兼兵学大助教  
浜武忠久、正木保之、福村周義、林 賢徳、香山永隆、前田利亨、
小林一郎翹、浅羽幸勝、山本淑儀、大坪岩次郎正愼、
海軍中尉兼兵学中助教
蓮池 乗、島津定禮、西尾政典、吉田輝隅、永原 雅、箕村保道、
近藤光英、白藤弘衛道怒、工藤精一、笹尾精也、鈴木忠朝、
横井貫一郎時庸、永田義次郎嘉之、原田彦三元信、
海軍中尉
山澄吉蔵直清、鈴木良輔正良、市川国三郎清啓、松田卯七郎尚之、
永井充造重英、
海軍少尉兼少助教
柴田五郎治吉晴、高松典二 稱、集堂弓五郎惟徳、平元良蔵、
尾本雄二郎知道、
海軍少尉
神谷瀧吉郎光貞、佐橋釘五郎徍衡、真田正義一、谷喜久雄信久
田浦僊蔵明義、永原徳松永正、三浦 功竹安、尾形幸次郎惟善、
小川小文次親政、山本伊三郎清蔵、春日井重次郎是信、山口吉郎陳長、
九等出仕  高橋達郎
十等出仕  片山淳吉、大槻修二 分、
十一等出仕 須川清一郎賢久、
十二等出仕 下曽根信之、神戸慶司友千、河村信造弘貞、鏡 一造光照、
小澤圭次郎 勉、中川錠蔵将行、荒川敬次郎重平、永峯矯四郎秀樹、
行徳元穆、
十三等出仕 井桁謙三満智、百田龍三重明、新井鐘吉有貫、西森拙三元雄、
新井次郎勝信、箱館儀三郎大経、立見 研習之、
十五等出仕 石原勇五郎奥富、中村富八郎正臣、
                         (海軍兵学校沿革より)
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2 コメント

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製図掛 三浦義路 (旧姓三浦美登子の四女)
2011-03-29 11:15:03
大陀坊様
うわっ!びっくり!うれし!
祖父の三浦義深の事は海軍で後には水路部、逓信省の仕事もしていたと知ってましたが曽祖父の三浦義路の事は武家とまでは聞いてましたが何をしていたのかよく解ってませんでした。お墓は東京都港区芝白金にあります。
製図掛 三浦義路 を見つけた喜び!感謝します。欲張りなものでもっと知りたくなります。
今後、楽しみにおじゃまします、宜しくお願い致します。
返信する
製図掛 三浦義路 (旧姓三浦実登子の五女)
2011-03-31 13:34:29
大佗坊様
メールします、頭隠してなんとやらで怖い気も致しますが・・・楽しみです。知ることにより歴史が身近な過去に感じられ楽しいです。
ところでどうでも良いことなのですが私は五女でした。
返信する

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