大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津藩家老 簗瀬三左衛門

2013-02-18 | 掃苔

NHK大河ドラマ「八重の桜」が始まった。すべてのドラマを見たわけではないが、知らない若い俳優さんたちも多く、誰が誰の役を演じているのかよく判らなかった。初め、西郷頼母を見たとき、あまりの年齢差により、何代目の頼母なのだろうかと考えてしまった。会津藩家老の異色のキャステイングに萱野権兵衛役の柳沢慎吾がいる。戊辰の戦いで会津藩の責めを一身に負った権兵衛だが、自刃に向かうとき「あばよ」なんて言わないのだろうな。ドラマの中で見慣れない方が会津藩重役でいた。山野史人さんが演じていたのは簗瀬三左衛門真枠という会津藩家老だった。昔の事を偲び、また口々に相傳えることを書き綴ったという小川渉の志ぐれ草紙に「会津に家老なし」という話がある。この話は、ただその文字上より解釈した我藩に賢相なしとの意味ではなく、我が会津は藩祖よりの掟を厳しくして君主専制にて家老の独断を許さず、藩主の補佐を尽すのみにて、その功績は下に現れ、代々の君公はみな賢明であったから、その話もある意味、当たっていると書き残している。わざわざ明治の終わりごろに書き残したという事は、当時も戊辰の敗戦の旧会津藩の家老に対する風当たりは相当なものだったのだろう。幕末の会津藩の意志決定はどのようになされていたのか判らない。ドラマでは悪玉がいなければ主役は目立たないが、品格を落とすような形での話だけは勘弁してほしい。会津での簗瀬一族の菩提寺は天寧寺にあるが、旧会津藩家老を勤めた簗瀬三左衛門真枠の墓が青山霊園にある。

 
青山の墓域には旧会津藩士雑賀孫六郎の妻となった雑賀阿佐子と簗瀬多美子の墓が明治四十二年十一月に青山女子手芸学校、函館遺愛寿学校、駿台英和女学校、日本メソヂスト九段教会の有志者によって建てられている。
  
一瀬紀一郎(雑賀孫六郎、雑賀重村)は紀州雑賀氏で、会津藩家老伊那の一瀬氏とは別系である。幕艦「開陽丸」に乗り込んだりしていて紀州雑賀孫六の子孫も興味が尽きない。簗瀬三左衛門の出自ははっきりしないが、簗瀬三左衛門正真系譜に最上浪人とあり、佐々を名乗って本城絵図に佐々姓がみられることから最上氏家臣本城満茂配下であったかもしれない。系譜によると、三左衛門正真は三左衛門と云い最上浪人簗瀬善兵衛の子で初め佐々三左衛門と申し寛永十四年(1637)、羽州最上に於いて土津様に被召出、その後、諱を正真と名乗り追って姓を簗瀬と改め、同十八年八月御知行六百石となった。幕末まで簗瀬家は分家を含め会津藩で七家を数え、簗瀬三左衛門家では二千石を越え、政治力でかなりの実力者だったのだろう。戊辰の時、白虎隊自刃者、簗瀬勝三郎、簗瀬武治はこの一族です。山川源八常道の子で横山主税常徳の養子になった会津藩若年寄横山主税常忠の妻は簗瀬三左衛門娘の松尾、主税常忠は五月朔日白河にて討死した。常忠の首級は会津に持ち帰り常守霊神と号し大窪山に埋葬された。主税常忠の妻松尾は青山霊園にある横山家の墓に合葬されています。
 
陸軍少将簗瀬真琴は簗瀬三左衛門真枠の孫で墓所は多磨霊園にあります。

 

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6 コメント

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大河ドラマつながりで・・・ (愛宕山)
2013-02-21 15:13:48
初めて、コメントいたします。

今年の大河が会津とのことで、わたしの母方の曾祖母が会津出身なので
戸籍から父親の名前を調べて、検索にかけてみたところ、こちらに誘導されました。

戸籍では、福島県北会津郡若松千石町平民芦沢直道長女とありました。
会津藩士ではないだろうと思っていたので、大変驚きました。

私の曾祖母は、明治23年まで警視庁警察医であった下野烏山の医師川俣英夫に明治20年に嫁ぎ、8人の子をなし
昭和29年、92歳で亡くなりました。

大陀坊さんのおかげで、色々と興味深い
話がわかりました。ありがとうございます。 東京に行く際には、お墓参りに行こうと思っています。
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芦沢家のこと (大佗坊)
2013-02-22 13:23:16
愛宕山様 はじめまして管理人の大佗坊です。コメントありがとうございます。
会津芦沢氏の親戚にあたる方から連絡を頂き驚いています。ご存じでしょうが、曾祖母様の父親、直道氏の弟は西南の役に従軍、勇名全軍に轟かせた内村直義氏で、その実父は会津飯沼家から芦沢直輝に養子に入った直保(旧寛治)氏です。青山の芦沢家墓域に鳴尾(直輝三女)の墓碑があります。京都府立英学校の後身である「女紅場(新英学校)」で権舎長兼教導試補には山本覚馬の妹八重子が務め、同時期に勤めていたか、確認はとれませんでしたが、同校で旧会津藩奥右筆だった芦沢鳴尾が書道を教えていたと言います。名前の羅列で申し訳ありませんが参考まで。
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ごんべえさあ (伊藤哲也)
2013-03-07 00:20:09
こんにちは、本文はタメになりました。そうとう、頭に埋もれてしまっています。横山主税など子孫から聞いたりとか思い出します。萱野権兵衛のことは、面白かったです。権兵衛さんの供養祭にも復帰したい今日この頃です。
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国老法要のこと (大佗坊)
2013-03-07 09:13:46
膨大な知識をお持ちなので、縦糸、横糸を整理するのは大変でしょうね。
国老法要もだんだん参加する方が少なくなっていると聞きます。
伊藤さんが参加なされば皆さん、喜ばれるのではないでしょうか。
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会津と秋田に簗瀬三左衛門あり (簗瀬宇兵衛)
2013-06-22 11:18:17
 わが祖先は簗瀬三左衛門。文政3年に亡くなった三左衛門の墓が残っています。その前の先祖の墓は現存しません。400年以上前、戦に破れて峠を越え、山形秋田の県境近い現在の秋田県湯沢市小野に帰農したと云われています。逃げ延びて当地の百姓小屋で泥まみれになって隠れていた紅顔の若武者が、そこで拾われて住み着いたと口伝されています。近くには「諏訪八幡神社」が祀られ、簗瀬一族が願をかけた碑が残っています。会津の三左衛門と私たちの祖先とは一族だったのでしょうか。会津の三左衛門は、同じ「三左衛門」の名前を祖先に持つ秋田の簗瀬家の誇りでもあります。
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会津簗瀬三左衛門 (大佗坊)
2013-06-24 13:19:25
簗瀬宇兵衛様 はじめまして管理人の大佗坊です。
猪苗代に藩祖正之公を祀った土津神社があり、ここの幸彦霊社に会津簗瀬氏の初代簗瀬三左衛門正真が祭られています。新編会津風土記に「正真は出羽国最上郡人佐々善兵衛俊信と云者の子にて幼名を三彌と云」とあり、続会津資料叢書にも、最上浪人簗瀬善兵衛の子、初め佐々三左衛門と申し、土津様へ被召出、その後正真と相名乗追って簗瀬と相改め、とあるので、最上での姓は佐々氏と云う事でした。初代三左衛門が正之公の家臣なったのが寛永年間で、宝永七年に亡くなっています。湯沢にある文政三年の三左衛門墓とは年代に差があり、佐々氏から簗瀬氏に姓をかえた理由も不明ですが、姓氏家系大辞典によると会津簗瀬氏は築後三池氏の末裔とあり、古い一族だったのが判ります。湯沢簗瀬氏に関する史料を持ち合わせていないので直接の関係は不明ですが、最上出身を考えると、何らかの関係はあると思います。会津簗瀬氏の家紋は丸に木瓜です。古くから伝わる口伝はその家に代々伝える大事なものです。大切にして頂きたいとおもいます。
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