大佗坊の在目在口

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広島比治山陸軍墓地

2018-01-06 | 

広島駅から南に約1k、市内を流れる太田川の支流、京橋川と猿猴川(えんこうがわ)の分流点に挟まれた巨大な三角洲に、大昔は小さな島ではなかったのかと思える標高70.9mの比治山がある。明治四年(1871)、廃藩置県により全国に四鎮台が設置され広島城内に鎮西鎮台第一分営が配置され、明治六年(1873)、広島第一分営を第五軍管区広島鎮台とした。明治五年(1872)、日本陸軍は陸軍墓地の整備を決定、広島鎮台では比治山南部に陸軍埋葬地を開設、明治九年(1876)には二千二百坪以上の敷地があったという。その後、拡張されたが、戦死者の増加に伴い合同墓碑、忠霊塔が建立されるようになった。
 
 
 
 
太平洋戦争末期、比治山に高射砲陣地設置のため、墓石は撤去され遺骨は仮納骨堂に収められたが、終戦の混乱や自然災害等により荒廃、さらにこの墓地跡にABCC(原爆傷害調査委員会。現放射線影響研究所)が造られ、忠魂墓碑は現在地に移された。陸軍墓地に向かう途中、この研究所の横を通った。なにか不気味な感じの建物で、ここのH・Pによると、平和目的のために、原爆放射能の健康影響について調査する日米共同研究機関とあったが、ダウンロードできる研究データは最新で2009年迄で、古い研究データしか公開していない。何故なのだろうか。旧陸軍墓地の南側に北清事変(義和団事件)で負傷し、広鳥衛戌病院に収容され亡くなったフランス兵を弔った「フランス人墓地」があり、その参道沿いに残った墓石を出身県別に地元有志が並べて比治山陸軍墓地として復元した。現在3533基の墓石が並べられているが、1000基ほどが所在不明のままだという。
 
輜重兵第五大隊の陸軍軍人合葬之碑、歩兵第廿一連隊大一大隊、同第二大隊、同第三大隊の各陸軍軍人合葬之碑、輜重兵第五大隊の陸軍軍属合葬之碑の五基の合葬之碑が中央にある。いずれも明治二十九年に建立された。

歩兵十一連隊慰霊碑、明治二十七・二十八年戦死者合骨碑・明治三十三年清国事変死歿者碑、
 
慰霊碑(元陸軍運輸部通称暁部隊金輪島工場電気部員)、独逸人墓碑、
 
慈恩塔(清国人捕虜墓)、大東亜戦争・台湾出身戦没者供養塔、
 
モノンハン事件戦没者慰霊碑、舶砲兵部隊慰霊碑、
 
長江会合同慰霊碑、陸軍少年飛行兵碑、
 
通信船舶特別幹部候補生鎮魂之碑、電信兵慰霊碑、
 
フランス殉国忠士の碑・仏蘭西人墓標がある。
 
北清事変での仏国傷病兵を受け入れたのが、明治三十三年六月開設の広島陸軍予備病院(平時は衛戍病院、戦時中は編成を変えて予備病院)で、治療にあたったのが、会津藩士芳賀代吾の二男芳賀栄次郎です。栄次郎は東京帝大卒業、陸軍三等軍医として任官、明治二十七年には医学博士となり、同二十九年には陸軍一等軍医として独逸国駐在、当時最先端のX線診断技術を学び、自費でX線装置を購入し三十一年帰朝、東京衛戍病院附となる。北清事変後、広島陸軍予備病院に外国人傷病者の受け入れと同時に芳賀栄次郎を派遣し、X線撮影を使用し仏国傷病兵の治療にあたらせた。大正四年二月、軍医総監に進み大正九年九月に退官した。明治二十七年(1894)、日清戦争のとき新島八重が日本赤十字篤志看護婦取締役として4ヶ月間、広島陸軍予備病院で従軍している。

陸軍墓地から広島市内

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