大佗坊の在目在口

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向島三囲神社

2012-03-15 | その他

警視庁年表の初版は明治改年から数えて満百年に発行された。十年を経過し既刊分に補足修正(増補・改訂版)の明治二十三年の項に「プロシア(ドイツ)警察大尉ウイルヘルム・へーンを警察官訓練の教師とする」と警視庁関係主要事項に記載があった。このウイルヘルム・へーンの表功碑が三囲神社にあることが分かり早速、三囲神社を訪ねた。

                  浅草から隅田川の東側へ言問橋を渡り土手道と水戸街道との間に、「見番通り」という色っぽい名前の付いた路があった。ここは伝統文化の継承を担っている芸妓さんが、登録数で百人を超えると云う芸妓組合や料亭組合、料理店組合が合併した向嶋墨堤組合、通称見番の建物が在る通りで、この通りに三囲神社(みめぐり)という変わった名の神社があった。

   

 山門の横に三囲神社の由来を記す碑「弎匝山祠碑・ミメグリサンシ」、三囲神社由緒碑や社伝によると三井寺の僧、源慶がお告げにより、社壇をほると土の中から壷が現れ開けてみると、宝珠をもった老翁の神像が現れ、その時、どこともなく狐が現れて、像の周りを三度回って消えたので、三囲神社となったといわれている。源慶は自ら奉持していた延命地蔵像を安置、社を造営したという。慶長年間、隅田川築堤のため旧社地より現在地に遷座、元禄六年(1693)、宝井其角が社頭で雨乞の句「夕立ちや田をみめぐりの神ならば」と詠み、翌日雨が降りこのことで広く世間に知られるようになった。この神社は三井、三越との結びつきが非常に強い。

                                  三井広報委員会のHPによると、「三囲神社の草創は定かではない。建立されたのは弘法大師の頃、つまり平安時代初期にまでさかのぼると伝えられている。御祭神は宇迦之御魂命で、「宇迦」は穀物を示す、京都・伏見稲荷の主祭神でもあり、広くお稲荷さんという呼称に掛けて、三囲稲荷という別名でも呼ばれている。三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。それというのも、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町からみて東北の方角に位置したからである。いわゆる、鬼門だったのだ」という。さらに「三囲神社の囲の文字には三井の井が入っている、そのため、「三囲はすなわち三井に通じ、三井を守る」と考えられた。長く崇敬されてきた歴史があり、今なお三井家とのゆかりは深い。社域の一角には三井家の当主夫妻、120柱余りの霊が神として祀られている「顕名霊社」がある。没後100年を経た霊だけが祀られる、特別な場所だ」と記されている。      

三井家と特別な関係にあるせいか、この三囲神社の境内には、その数ざっと62基の句碑、歌碑、由緒碑、追悼碑、顕彰碑、道標等、様々な石碑が残されている。「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」という変わった三石柱鳥居や秦蒙将軍之象、榎本武揚篆額の弌菴小林先生之碑などの名碑がある。普国警察大尉ヘーン君表功碑の裏側に刻まれた生徒総代七名の中に会津人内村直俊(明治二十六年三月下谷警察署外勤乙部長)の名があった。さらに社殿の右側鳥居の前に旧会津藩士佐瀬得所の書による友海真□「夢の世に来て見るゆめのおもしろし また先の世の夢ぞ楽しき」、真我辞世碑もあった。

 

此御神に雨乞する人にかはりて 遊ふた地や田を見めくりの神ならは 普其角

 

 「早稲酒や狐よび出す姥がもと」(其角)の句に詠まれた老翁老嫗像

    

普国警察大尉ヘーン君表功碑と副碑

 

旧会津藩士佐瀬得所の書

追記:西南の役で警視庁一番隊長として田原坂にて戦死した内村直義は内村家七代、内村直俊が八代、昭和壱拾四年六月歿 行年八十二才

「普国警察大尉ヘーン君表功碑と副碑」碑文

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