大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

広島二葉の里(不動院・日通寺・明星院)

2018-01-13 | 

広島東区役所のHPに「二葉の里歴史の散歩道」散策マップが掲載されている。広島市を航空図で見ると、大きな三角州のなかにいくつかの緑がある。一番大きな島みたいに見える海抜260mの牛田山の南側から西側山麓にそって、牛田新町から矢賀駅までの間に点在する、由緒ある神社・仏閣・史跡などを結んだコースだという。このなかのいくつかのお寺と神社を廻った。一番西側の不動院からスタートした。正式には新日山安国寺不動院、広島市内で唯一の国宝が残っている。国宝の金堂は天井墨書から天文九年(1540)頃の建立と推定されている。楼門は国指定重要文化財。
 
 
戦国大名の大内義隆が周防山口に建てた建物を安国寺恵瓊が安芸安国寺仏殿として移築したと伝えられる。江戸時代に禅宗から真言宗に変わり,寺号も宥珍が不動明王を奉じてきたので不動院と呼ばれるようになったという。
 
お寺を訪れた時、介護施設か養老院かのお年寄りが大勢、車いすに乗って日向ぼっこをしていた。目が合うと、「こんにちは」と挨拶をしてくれた。みな楽しそうだったので、なにかホッとする。
広島浅野家より寺領を与えられ、各宗派の札所を勤めていた五ケ寺(国泰寺(曹洞宗)、明星院(真言宗)、松栄寺(天台宗)、日通寺(法華宗)、正清院(浄土宗))があり、その中の加賀前田家ゆかりの英心山日通寺に寄る。
 
寺名は三代藩主綱晟の法名天心徹性日通によるもので、裏の浅野山緑地の大部分を占める浅野家墓所に綱晟は葬られた。通りかかった人に聞いたら、浅野家の墓地は入れないし、裏山の上だと聞き、素直に諦めて明星院に向かう。
毛利輝元の母の位碑所だった妙寿寺を、福島正則の代に明星院と改名した。山号は月光山、大日密寺明星院は広島浅野家藩内五ケ寺の一つで、四代藩主浅野綱長は浅野長政夫妻の位牌を安置したという。
 
 
ここに赤穂義士の木像が安置されている。木像は比較的新しく、明治時代に作られたものといわれている。本堂には、元禄事件討入の四十七士と、様々な支援をした天野屋利兵衛を加え、左右二十四体ずつ安置されている。
 
 戦争で古い記録が焼失して詳しいことは不明だという。寺坂吉右衛門信行の木像が安置されていた。
 
寺坂吉右衛門は晩年、麻布の曹渓寺に住まい、近くの麻布山内家に仕え、延享四年十月八十三歳で歿し曹渓寺に葬られた。昭和20年代、曹渓寺門前の空き地にあったハゲ山(高さ4~5m位の粘土の山:現在病院)と曹渓寺裏山の墓地が遊び場でした。この曹渓寺裏山に玉虫が飛んでくる木が一本あって、夏になると近所の子供たちが大騒ぎだったのを思い出した。昔は裏側の絶江坂から墓地への出入口がいくつもあって自由に遊べたが、今はお寺の墓域には檀家さんしか入れなくなっている。
 
曹渓寺は土佐高知新田山内家(麻布山内家)の菩提寺で、その墓域の前に寺坂吉右衛門の碑があり、これが吉右衛門の墓碑だと思い込んでいた。古い写真を見たら、これは孫の信成が寛政四年(1792)に建立した、内田淑明(頑明)撰文、八代美徳隷額による「寺阪信行逸事碑記」であった。少し離れたところに寺坂吉右衛門夫妻の墓があり、隣に三周忌の寛延二年(1749)、伊藤長準謹誌、子の信保建立の「寺坂信行碑銘」が残っている。今は碑銘文が殆ど剥落していて読みとることが難しくなっている。
左)寺阪信行逸事碑記      右)寺坂信行碑銘
  
寺坂信行碑銘
寺坂吉右衛門諱信行事故浅野侯于播州赤穂城為吉田兼亮之庸吏其為人也朴實敦厚事君而忠興朋友交棄已如癡方大石氏復讐之時亦共與焉袍氷握火與衆共之事志遂矣黨衆相議而使信行報於先君之遺族在芸州者還則大石等皆已就死矣人口是碑今不復贄名正義精無一可議也而後事于山内主膳公恩遇殊渥高義薄天雄節邁倫世稱其功而至今不倦也無子養信保為嗣延享四年丁卯冬十月六日罹疾而終焉享年八十有三遂葬于東都曹渓寺信保来請予誌于墓亦信行之志也因記其行事之大略系之以銘曰
   身在下列 英耀忠誠 志既遂兮 遠邇傳聲 心迹倶全 諤々之英
寛延二年歳在己巳冬十月大祥日 伊藤長準謹誌子信保建


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