大佗坊の在目在口

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小田原駅前北条氏墓碑

2014-09-09 | 小田原

小田原駅東口にある商店に挟まれておしゃれ横丁と名付けられたカスバの入口みたいな怪しげな狭い道がある。踏み込んでみるとクランクのような道で、思ったよりスッキリした飲食街で道なりに進むと、1・2分の所に稲葉氏が小田原在城の頃、北条氏追福のため、作り直した北条氏政・氏照の墓碑がある。

 



滋雲院殿勝岩傑公大居士 青雲院殿透岳關公大居士
右)天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政
左)天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照
北条氏政公 北条氏照公御生害之場所
 
秀吉は小田原征伐で時の城主北条氏直を高野山に追放、父氏政、その弟氏照に責任を負わせ田村安斎邸で生害した。遺骸は北条氏の氏寺の湯本早雲寺末寺地蔵山伝心庵に埋葬された。北条氏滅亡後、小田原藩大久保氏の時、伝心庵は寺町(中町)に移され、その跡に永久寺が建立され、この墓所は永久寺の所有となり、墓所は永く放置されていたものを稲葉氏が再建立したものである。
この墓碑は関東大震災で埋没したが、震災の翌年、地元の有志によって復興された。大きい方の五輪塔は、北条氏政夫人の墓と伝えられている。
新編相模国風土記稿、永久寺の項に「北條氏政氏照兄弟碑。巽隅にあり、臺座を合せ、長三尺、一基に二人の法名を并彫る、慈雲院殿勝岩傑公大居士、北條相模守氏政、青雲院殿楽關公大居士、北條陸奥守氏照、天正十八年七月十一日、背に生害之場所と彫れり、按ずるに兄弟生害ありし地は、城下田村安斎の宅なること、當時の記録に見えたり、安斎の宅蹟は、筋違橋・欄干橋両町の邊にあり事は侍屋敷の條に詳なり、然るを當所となすもの解すべからず、 墓前に腰掛石と唱ふる石あり、縦二尺五寸、横三尺三寸」とあり、天正期には安斎宅は侍屋敷の内、安斎小路(箱根口城門東海道南側)にあったと云う。
 
境内にあった文政七年の銘がある北条五代供養塔
  
風土記稿に永久寺「同宗京花園妙心寺末、盛徳山と號す、大久保加賀守忠職、播州明石在城の頃、寛永十八年三月、其外祖母盛徳院殿(亀子、後加納殿と稱し奉る、東照宮の姫君にて、奥平美作守信昌に嫁し給ふ)の冥福を祈らん為に、城下に一宇を建、僧浮山紹圓を延て始祖となし、大應山盛徳寺と號す、寛永二十年、忠職の母永久院(千姫と稱す、奥平信昌の女、東照宮の御外孫、大久保加賀守忠常室なり)卒去の時、今の山寺號に改む」とあり大久保家六内庵の一庵だという。ちなみに内庵は侍屋敷の中か、寺地の除地を借地して城主か開基した寺院で大久保家六内庵とは三乗寺(善照寺内)、本源寺、桃源寺、永久寺、養託寺、慈眼寺の六寺をいう。
大久保氏の時、寺町(中町)に移された伝心庵を訪ねてみた。本堂には三ッ鱗紋が!
 
地蔵山伝心庵過去帳に「十八日 南陽院殿華渓宗智大禅定尼 永正三寅年(1506)七月 北条長氏公後御前」とあることから早雲後室の牌所として建立された可能性があるという。

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