大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

大久保氏六内庵(養託寺・慈眼寺)

2014-12-13 | 小田原

大久保忠職が加納五万石城下(岐阜市加納)に建立した三乗寺(旧宝源寺)、同じく忠職が加納城下に建立した本源寺(旧本性寺)、桃源寺、大久保忠職が明石七万石城下(兵庫県明石市)に建立した永久寺、大久保忠職が唐津八万三千石城下(佐賀県唐津市東城内)に建立した養詫寺、大久保忠増が小田原谷津に建立した慈眼寺を大久保氏六内庵と云う。
養詫寺は新編相模国風土記稿(風土記稿)に「侍屋敷にあり、浄土真宗(東六條本願寺末)瑞渓山養詫寺と号す、開基真暁法師、元和二年肥前国松浦郡唐津にて一寺を建、山寺号を本山より免許あり、四世普門、易学に精しき聞えあり、時の城主大久保出羽守(後加賀守と改む)、忠朝しばしば占考を命ず、忠朝延宝六年下総州佐倉に所替の時、其地に移し(此時本山に請ひ養託庵と改む、五世達秀の時、旧に復すと云ふ)、夫より随逐して当所に至る」とあり文久小田原城絵図によると養託寺の場所は今の小田原駅西口の神奈川県道73号小田原停車場線と小田原市城山を起点とする県道74号の分岐するあたりになる。養詫寺から養託寺に表記をかえた時期はハッキリしなかったが、寺は昭和39年(1964)に開通した小田原新幹線用地買収のため昭和30年代に現在地の城山二丁目に移転している。

左、明治二十六年小余綾城趾街略図(小田原市史資料編附録)。右、地図の上部斜線が新幹線
 
 

境内墓地には小田原藩家老挌杉浦平大夫久貫(左)、藩士で宝蔵院流槍術、曲全流半弧、石州流の三芸之師、畔柳宗拙政和(右)の墓碑がある。
   

大久保氏内庵の一、慈眼寺は風土記稿に「(字入谷津にあり」、黄檗宗(山城國宇治郡大和田村萬福寺末)、福聚山無量壽院と號す、大久保加賀守忠増、元禄十六年(1703)十一月廿三日大地震し、府内の人民横死許多なるを傷み、彼等追福の為に、一宇を建る志あり、幸に郡中府川村に、洞家の廃寺あり(久野村総世寺十世香馨、慶長十五年、隠栖の為に起立する所なり、萬治三年香馨卒後、廃蹟となる)、西光寺と號す、忠増彼寺の本寺総世寺の住僧(十八世實全)と謀り、宝永元年、引寺號の事を官に乞ひ、(寺社奉行安部飛騨守正喬奉れり)同四年許可あり、(本多弾正少弼忠晴奉れり)、是に於て寺名を慈眼寺と改め、正徳元年(1711)黄檗山の末となれり、同五年(1715)堂宇を此地に造立し、僧恵極をして住職とす(享保六年八月廿四日卒)、是を中興開山となす(實は開山なれど、舊寺を引遷せしを以て、中興とせしなり)。西光寺の舊地は(府川村内字天神下にあり)、今除地にして(今林となる、段別四畝四歩)、當寺の持なり、本尊三尊弥陀、領主より倉米三十苞、金若干両、及び伊張山にて(久野村の属)、山林(段別五十三町)を附す)」とある。
大久保氏長加賀守藤原朝臣忠増は正徳三年(1713)七月に亡くなっており、正徳五年に此地に造立された堂宇を見ることはなかった。この堂宇には小田原領内の元禄大地震で亡くなった被災者供養の為、五百五十余名の霊位の記録が残されていたという。松隈匡輔 編「小田原史実と伝説」
 
今ある小田原市板橋の宗福院地蔵堂は、明治八年、村内の出火で焼失した建物の後に、入谷津(現在 城山2丁目)の黄檗宗慈眼寺仏殿を移築したもので、桁行三間、梁間三間の主屋の四周に裳階をめぐらした方三間裳階付の構成で、外観は二重屋根です。前面の裳階を吹放しの土間とし正面中央の柱間を著しく大きくするのは黄檗宗仏殿の特徴だという。


大久保氏六内庵(三乗寺 本源寺)

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