大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

嵯峨 二尊院

2018-03-17 | 

落柿舎から二尊院まで人影もなく静かな小道で、2,3分程で二尊院の総門に着く。
 二尊院のHPによると、慶長十八年(1613)、伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたものだという。伏見城は豊臣秀吉の死後、鳥居元忠が城将となり、「関ケ原の戦い」の前哨戦で全員討死。慶長年間の初期に家康により再建されたが、元和九年(1623)に廃城となっている。この伏見城の薬医門というのは何時の時代のものだったのだろう。徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立したのが慶長八年(1603)、慶長十八年といえば大坂冬の陣の前年で戦雲が高まったのを見越して伏見城の遺蹟を移したのだろうか。総門を潜るとまっすぐな参道がある。
 
この参道は「紅葉の馬場」と呼ばれている紅葉の名所だという。真冬の参道に佇むと、なにか毛の薄いおやじの後ろ姿を見ているようで、かなりうら寂しい。NHK新細雪のラストシーンで四姉妹が歩いていた華やかさは、紅葉の時期が一番だが、「紅葉の馬場」とは誰が言い出したのだろうか。総門から塀まで僅か133mしかない。しかも途中から幅の広い石段になっている。幅広の石段を馬が駆け上がれるのだろうかと余計なことを考える。
 
いつ頃から通れるようになったが分からないが天皇が派遣する「勅使」だけが出入りする勅使門を潜ると正面にあるのが本堂で、平成28年に、約三百五十年振りとなる平成の大改修が完了した。
 
 
 
本堂に向かって右側に柑橘の実をつけた灌木があった。反対側には枝垂れ桜があった。これでは右近の桜に左近の橘になってしまうが、本堂が東向きに建っているので南向きに建てられた紫宸殿と比べるのは元々無理な話だが、二尊院は京都御所の西にあるから、御所からみると左近の桜に右近の橘で合っているのかと納得する。
二尊院は正式には「小倉山二尊教院華臺寺」といい「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を祀る。後で知ったが、極楽往生を目指す人をこちらの岸から送る「発遺の釈迦」と、あちらの岸へと迎える「来迎の弥陀」の遺迎二尊だという。この世から「行け」と発遣する釈迦如来の声と、浄土より「来たれ」と召還する阿弥陀如来の声を聞いていくという。川を渡っても、来いという阿弥陀如来の声が聞こえなかったら閻魔大王と対面することになってしまうのだろうか。前もって知っていたら、ちゃんとお参りするのだった。
 
 
本堂の横に急な石段の上には二尊院で教えを広めた僧湛空の碑がある湛空廟、石段の横には弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀る弁天堂がある。これは、四足門に二尊教院の額があり、夜々に門前の池より靈蛇が出てきて、この額を舐めてしまい、後には字形や彩色が消えるほどになった。これを防ぐため、正信上人は靈蛇に自らの戒法を授けるため血脈を書いて池に沈めた。すると龍女成仏の証拠として千葉の蓮華一本が咲いたという。これは二尊院縁起に出てくる話ですが、称名院公條(三條西公條)の筆となると、本当らしく聞こえてくる。
 
境内の端に金属の大きな環形のモニュメントがあった。なんだと思ったら平成十七年に井筒八ツ橋本舗六代 津田左兵衛が建立した「小倉餡発祥之地」の碑で、小倉の里で小倉大納言小豆の栽培の復活に取り組んだという。

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