大佗坊の在目在口

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会津の和人参

2010-12-24 | 會津
幕府が薬用人参の栽培を奨励した和人参はオタネニンジン(御種)とよばれ、
セリ科の普段手にしている食用ニンジンとは全く別物で、朝鮮人参は朝鮮から
輸入した薬用人参で、対馬藩が一手に輸入販売していた。

他方唐人参は、長崎を通じて輸入される薬用人参であり、必ずしも
中国産とは限らないが十七世紀の後半から輸入が開始された。朝鮮種の
人参が日本で栽培されるようになったのは徳川吉宗の代であり、享保十三年
(1728を)、対馬藩より献上された人参生根八本、種子六十粒を翌年、
幕府が野州日光地方で生育成功させたのが始まりだと言われている。

幕府は元文三年(1738)、朝鮮人参種種子を希望者に下げ渡し、培養の方法を
初めて公開したが、栽培に成功した者は極めて少なく、宝暦二年(1752)、
野州日光で人参を栽培成功していた農家は三軒だけだった。

会津藩領で人参栽培が始まった時期はハッキリしないが、幕府から御種人参を
譲り受け、また、家老田中玄宰が出雲から人参を移植したとも言われている。
全面的な藩営事業となったのは文政十二年(1829)からで、そのころ、江戸は
金経済、上方では銀経済と分かれており、変動相場制と生産増加による価格変動に
会津藩も悩まされていたようで、この年、藩はそれまで大阪で売り捌いていた人参を
清国への出荷のため長崎会所一括引受を申請している。

天保三年(1832)まで三年以上の交渉が続けられ、毎年一万斤程度の長崎会所
一括引受が成立した。人参の質によっても価格が変動するため、会津産の和人参の
取扱いを任せたのが、それまで領内人参の販売を一任していた大阪田辺屋作兵衛から
独立した長崎田辺屋足立仁十郎だったのではないだろうか。

ちなみに天保三年、会津人参唐方渡しが8711斤、代銀で1059貫609匁、
天保七年、会津人参唐方渡しが9600斤、代銀で672貫480匁となっている。

天保八年から唐方荷物買い上げの代り品として和人参が使われるようになり、
安政始めには、会津藩の人参は三万斤に増産されるようになったが、安政七年
そのための資金三千貫目の前借を会津藩は長崎奉行に申し出ている。これから
幕末にかけて、箱館、横浜での輸出も幕府は黙認したため、長崎会所による
俵物貿易独占が崩れ始めている。

幕末の会津藩士として七百石(御聞番勤肥前長崎表住居)足立監物として
名前が出てくるが、幕末、江戸湾警備、京都守護職等の資金調達で財政難に
苦しむ藩が資金を用立てた御用商人に知行を与え、藩士として召抱えたが、
実態は借金の返済の代りに苗字帯刀を許したということだろう。

現在栽培が続いているのが長野県、福島県、島根県で長野は上田、佐久で
日本の全生産量の7割、福島会津が2割、島根八束で一割弱、群馬、岡山で
ほんの僅かに生産されている。長野、会津、島根が江戸時代から生産が続いて
いるのは、これらの地方の気候風土が栽培に適していたこと、しっかりした
販路を持っていたと思われる。

この会津藩御商人だった足立家墓所を長崎祟福寺に訪ねた。

祟福寺第一峰門(国宝)

三門

大雄宝殿(国宝)



足立家墓域

足立智義(仁十郎)     右 足立監吾



参考文献
近大薬学部「薬用人参」
川島祐次「朝鮮人参秘史」
長崎市史
長崎談叢六十九輯本馬貞夫「会津用達足立家について」
本馬貞夫「貿易都市長崎の研究」
会津史学会「会津歴史年表」
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