大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

小田原 外郎(ういろう)

2020-01-29 | 會津

小田原に「透頂香 ういろう」という胃痛、食中毒、眩暈、頭痛、心悸亢進、其の他用急病皆奏効だという薬を売っている店がある。

ここの店主は代々外郎藤右衛門を名乗っている。
新編相模風土記稿に「至正の末元朝滅びし後、二主に事えん事を恥、本朝に帰化し筑前国博多に止る。是応安元年(1368)なり」とあり、これは足利氏満が関東管領となった頃の話で、風土記稿に、祖先は陳氏延祐(台山宗敬)、其子大年宗奇、其子月海常祐、其子祖田、其子二人、兄藤右衛門尉定治(実如院蓮真)(弟、名欠く)、其子家治(宇野源重郎:安住院蓮秀)、其子吉治(正悦)、其子光治(蘇庵)、其子英治(円性院玄妙日周寛)、相治(意仙)、意庵、蘇庵(広治)、以春、養甫、以春、以珊源十郎、外郎鉄丸と名前が続く外郎家の簡単な家譜が記載されている。この家譜は外郎家が度々の火災にあい古文書等を喪失し、元禄十一年(1696)、宇野相治の依頼により、箱根湯本の早雲寺住持の栢州宗貞により作られたものだという。(早雲寺)

小田原外郎家の祖先は元朝に仕えた札部員外郎の陳延祐で元朝が滅び元朝に代わった時、日本博多に帰化し宗継と号し、其子大年の時、京都で足利将軍に仕えたという。風土記稿によれば、透頂香は延祐の子大年宗奇が応永初年(1394)、将軍義満の命に応じ明に使いし、透頂香と云う仙方を得て帰朝すとある。五代定治のとき氏を宇野に改め、北條氏の招きに応じ、弟を京都に残して小田原に来住している。雍州府志には「其ノ末裔(台山宗敬)洛下西ノ洞院ニ来リ住ス、透頂香ヲ製シ之ヲ売ル、小田原ノ透頂香ハ此ノ余流也。斯ノ家ノ之庶流也。小田原ノ透頂香ハ此ノ余流也。大覚禅師来朝鎌倉二在リ斯ノ薬ヲ於小田原土人ニ傳ト云、今小田原人来テ京師ニ賣ル」と異説もある。定治の子家治(源重郎)は御馬廻衆として北條氏に仕え、その子吉治(藤五郎)は小田原城下今宿町奉行として北條氏の有力家臣でもあった。
外郎家菩提寺 玉伝寺


天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによって、北條氏は滅亡、城下には北條氏家臣は住まわせなかった。秀吉は透頂香という霊薬も販売していた武家の宇野から家名を外郎に戻させ商家として存続を許したのではないだろうか。
透頂香は小粒の丸薬で、阿仙、龍脳、縮砂等南方系の漢方薬を主成分にしていることから、外郎氏祖先とされている陳延祐は南の福建省か広東省出身の人かと思ったら、大元台州人だという。いずれにしても、透頂香の処方を誰が日本にもたらしたのか、また何時、宇野姓に改めたのか、はっきりしない。京都に残った定治の弟の姓も名前も不明だという。正保四年(1647)、蹴鞠の名人外郎右近は飛鳥井家との争いにより幕府から流罪にされている。この外郎右近は京都に残った定治の弟の末裔なのだろうか。寛政九年(1797)に出版された東海道名所圖會に「ういらう透頂香」の店が描かれ、店頭には雌雄の虎の屏風が置かれている。

その説明に「小田原外郎透頂香は大覚禅師来朝の時より日本に伝り北條氏綱ここに在城の時八棟造の薬店を許して弘めさせける」戯れ唄に「三絃のトウチン香の其音は千里に聞ゆ虎屋外郎」とあり、屋号が虎屋外郎だったことが分かる。

文化三年(1806)、幕命により五街道の寺社、本陣、橋、高札など詳細に描かせ完成した東海道分間延絵図に「ういろう薬屋」として掲載されている。この分間延絵図に商家が描かれているのは非常に珍しく、それだけ「ういろう」の名が世の中に知られていたことになる。会津坂下にある心清水八幡神社に貞和六年(1350)から 寛永十二年(1635)までの日記、塔寺八幡宮長帳がある。写本も多い。これらとは別に天喜五年(1057)から享保二十年(1735)まで記録された「異本塔寺長帳」が残されている。

この中に「(天文五年。1536)今年透頂香外郎《ウイロウ》売薬(相州小田原明神ノ前ニ北条氏綱屋敷ヲ賜リ始)其起ヲ尋ニ、昔人皇八十七代(寛元四年丙午、大覚禅師入唐、帰ニ員外郎ト云唐人、此妙薬ヲ持来テ)売今年居所ヲ究、日本ニ名ヲ顕ス」とあり、小田原から260kも離れた会津の山深い寺にも透頂香の名が伝わっていたことに驚く。古い系図ははっきりしないものの、六百五十年以上も続いている家系に驚かされる。

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