大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

ういろう別館 杏林亭

2020-01-22 | 

5,6年前、ある会津藩士の墓碑を探して小田原板橋にあるお寺と云うお寺を廻った事がある。新幹線と東海道線に挟まれた城山の南側にある玉伝寺の墓地の一角にかなり立派な外郎家という墓所があった。残念ながらその時は「外郎」という字が読めなかった。玉伝寺は新編相模国風土記稿に「開基は宇野藤右衛門定治、欄干橋外郎鐵丸の祖なり」とあって、その時は、宇野姓から外郎姓に替えたのだとしか思わなかった。小田原に転居して、知人に頼まれて「ういろう」を買いに行って「ういろう」の漢字が「外郎」であることを知った。東海道小田原箱根口近くの、ういろう本店隣に中華店「ういろう別館 杏林亭」があるのも知った。別館というから大きな店かと思ったら客席20位のこぢんまりとした明るい店だった。
 
 
 
テーブルに用意されている敷紙に杏林亭の謂れが書いてあった。「杏林とは中国の故事「神仙伝」にちなんだ医者の美称で、治療費の代わりに杏を植えると、数年で杏の林になったという逸話からです。外郎家の初代は中国・元朝の役人で医術にも長けていました。日本に帰化後、室町時代になると、京都にある当家の館は、いつしか杏林亭と呼ばれるようになり、そして、小田原に移住して五百余年、老舗の漢方薬局が直営する中華料理として、往時の呼び名を小田原で回帰しました」とあった。陳氏延祐を遠祖として四代祖田(字有年)は京都の自宅(現在の蟷螂山町旧陳外郎町。錦小路通りと四条大路に挟まれた西洞院通り両側)の庭に小亭を築き、「杏林」の札を掛けたという。「神仙伝」にある杏林の話は、中国三国時代に仙人菫奉は医術に長け、人々からの謝礼は受け取らず、軽症者には一本、重症者には五本の杏の木を植えさせた。やがて杏の木は林になり、自らを「董仙杏林」と称し、この故事から医者を「杏林」と云うようになったという。この店、飲茶セットがあるせいか10時から15時30分(L・O 15時)までの変則的な営業時間だった。飲茶セットは、前菜の盛り合わせ、サラダ、せいろ(小龍包、海老蒸し餃子、かに焼売)、大根もち、春巻、ゴマ団子、お粥又はスープ麺、デザート、杏林ういろう。中国茶で1800円(税別)。
  
    
  
写真は「根野菜と酢豚」と「海老と銀杏の広東風炒め」。
 
 
飲茶セットの最期に出てくるデザートが米粉を原料とした蒸し菓子の「ういろう」。お菓子の「ういろう」も一子相伝ということなので、この菓子に一子相伝の薬「ういろう(透頂香)」が入っているのか分からなかった。年寄には優しい味付けで量も丁度、良かった。ホールの当の女性店員は1人だったが、接客もテキパキと気配りも良く、非常に好感が持てた。 

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