大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

若松市長松江豊寿

2010-04-23 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (3)

伊太利より帰朝した下位春吉が国民新聞社堀田部長と弟の英一氏を
伴って福島の若松市に来たのは大正14年2月11日のことだった。

この国民新聞社は徳富蘇峰が明治23年(1890)に創刊した日刊の
新聞社で現在の東京新聞の前身の一つ。明治後期から大正初期にかけては、
藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれることもあった。

政府系新聞の代表的存在に成長していった国民新聞社は帰朝した下位氏に
国民精神作興の講演を依頼し、各地を巡回していた。

若松市長を訪ねた国民新聞社豊田部長は、下位氏を伊国首相と親交があり、
詩豪ダヌンチオとは兄弟の約結の人と紹介し、下位氏は「会津白虎隊精神は
伊国少年隊の精神と行為は同じであり、その事蹟に感激し少年隊長
ムッソリーニ氏の名において紀念碑を建てることになった」と話を持ってきた。

この時の若松市長は大正11年12月から第九代市長になった退役陸軍少将
松江豊寿51歳であった。豊寿は会津藩士松江久平の長男で明治25年
(1892)、陸軍士官学校に入学。大正3年の陸軍服役停年名簿に
よれば、明治27年(1894)9月に陸軍歩兵少尉に任官、大正3年
中佐に任官、歩兵中佐序列337位、ちなみに、このとき少将序列36位が
会津藩士柴佐多蔵の五男、義和団の乱で活躍した柴五郎。

2006年6月、中村彰彦著書「二つの山河」を参考にして、
第一次世界大戦中の徳島県にあった板東俘虜収容所を舞台に作られた映画
「バルトの楽園」の収容所所長が、のち若松市長になった松江豊寿だった。

大正14年11月、当時市議会の派閥争いに嫌気がさした松江豊寿は
市長を辞任、兼任していた会津弔霊義会専務理事に専念することになった。

当時、白虎隊墳域を管理していた会津弔霊義会はこの墳域の拡張を計画
しており、紀念碑寄贈の話を好機会として、大正14年12月に起工、
積雪吹雪も意にかいせず会津の青少年及び各団体を動員して翌15年
4月にはほぼ完成させた。

この15年4月というのは、前年11月に会津に再来した春吉の、
伊太利黒シャツ団代表しムッソリ―ニ首相より白虎隊に送る紀念碑に
首相の考案の碑文を自筆のものを彫り、15年4月上旬には到着予定で、
伊太利皇太子の御訪問も内定しており、伊太利碑の除幕式は殿下の台臨を
仰いで行うという話に合わせて、慌てて完成させたものであった。

なおこの紀念碑の台石及び訳文を彫る大理石については、下位春吉の
知人、岐阜の大理石商矢橋亮一氏の寄付で賄うとの話であった。

この話のとき、新聞記者も数名同席していたが、下位氏はこの話は
皇室に関することなので発表してはならないと記者に口止めしている。
喋ってはいけないなど、どっかの詐欺師の手口によく似てきた。

下位氏は12月、明春、伊太利から帰朝するときに碑を携行すると
言い残して伊太利に向けて出発した。  (続く)
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