大佗坊の在目在口

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盛岡藩家老 楢山佐渡墓

2019-09-25 | 掃苔

盛岡藩家老楢山佐渡の墓は盛岡の聖寿寺にある。南部家霊廟の側に明治十五年建立の四十代南部利剛揮毫の「盛岡藩士卒戊辰戦死之碑」や同じく明治二十二年建立の南部利剛篆額による「楢山佐渡之碑」があった
 
楢山佐渡は戊辰戦争で盛岡藩を奥羽越列藩同盟に主導し、同盟を脱退し新政府軍に加わった久保田藩と戦ったいわゆる秋田戦争を指導したが、新政府軍に敗れ盛岡藩は降伏した。元年十二月七日付、太政官達「南部利剛ニ謹慎ヲ命シ同姓彦太郎ニ家名相続セシム」。藩主南部利剛は城地を召上、東京にて謹慎、その子彦太郎(南部利恭)に家名相続させ白石十三万石へ転封させられた。盛岡藩責任者の楢山佐渡と佐々木直作、江幡五郎の名が東京に護送され南部藩菩提寺の芝増上寺内金地院に幽閉となった。楢山佐渡は反逆首謀者として刎首刑と沙汰が出された。明治二年六月二十三日、盛岡報恩寺本堂において刎首された。楢山佐渡の墓を探すのに聖寿寺の境内をウロウロしたが見つからず苦労した。結局、ご住職を煩わせてしまった
 
聖寿寺の墓域は右隣にある榊山稲荷神社を巻いて緩い坂道を150mほど先に2台ほど停まれる聖寿禅寺専用駐車場があり、その横から真っすぐに伸びた石段を上がった正面に楢山一族の墓域があった。
 
 
「昨臘依 御沙汰取調差出候叛逆首謀楢山仕渡今般別首被仰付候条可致処置旨昨十四日御書付ヲ以被仰渡取入奉畏候吾御請申上候間上五月十五日南部彦太郎軍務官御中」「叛逆首謀楢山佐渡儀依朝命去月二十四日旧領盛岡表刎首申付仕候此段御届申上候以上七月二日南部甲斐守内横田秀之進軍務御役所」とある
  
アジア歴史資料センターRefC09080100800.(右)RefC09080138000
 
楢山佐渡が亡くなったのは墓石に六月二十三日とあるが、軍務官への報告では六月二十四日となっている。この一日の違いは何だったのだろう。楢山佐渡と共に芝金地院に幽閉された盛岡藩の漢学者佐々木直作は明治2年10月、謹慎免ぜられ、のち板垣政純(号桑蔭)と称した。孫に陸軍大将板垣征四郎(政純長男征徳の四男)がいる。また江幡五郎は謝罪使として罪に服し謹慎は明治四年九月に許され、その後、文部省に出仕している。江幡五郎は盛岡藩医江幡道俊二男で十九歳の時、藩を脱し江戸。京都で学び、芸藩坂井虎山に学び熟長となり、遊学の間に吉田松陰や宮部鼎蔵と親交を結び嘉永四年(1851)十二月、江幡五郎通高(那珂弥八)は松陰や鼎蔵と共に東北地方に出掛けたが、途中の白河で江戸に引き返している。余談だが、松陰の東北遊日記によれば、一月二十九日、会津若松に入り、七日後の二月六日に出発している。その間、井深茂松、志賀与三兵衛、広川勝助、広川元三郎、高津平蔵、馬島瑞園、黒河内伝五郎、庄田長之助(半蔵)ら多くの会津藩士と面談している。七日町のどこに宿泊したのだろう。松陰が羽織の紐と半襟の色で藩士の階級を分けた事と日新館の年齢による教科に興味を持ったのが面白い。蛇足ですが「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」と巌頭之感の遺書を残し華厳の滝に投身自殺した一高生藤村操は江幡五郎の婿養子那珂道世(盛岡藩士藤村源蔵政徳三子)の実家の甥に当たる。

楢山佐渡之碑
篆額  正五位 南部利剛書
君諱隆吉通稱五左衛門後改佐渡考諱隆翼通稱帯刀其先信房實為我政康公第四子信
房三世孫直隆始以采邑楢山為氏世列老臣君叔母烈子為藩主利済公側室生利義利剛
二公以故幼為二公所暱年甫十五挙為側誥累進為近習頭為人剛直不猂寵栄不喜奢侈
読書講武毅然以国家柱石自在利済公知其可用命為国老時年廿有二黠姦佞陟忠良旗
革諸弊政意為不可者雖公命不敢奉當事変愕轍忤公意以故龍斥者敷矣而其除意害□
士民功積固己不少人或口為強項老一藩依頼焉外国事起以来尊攘之説大起至元治慶
應朝野騒従事勢切迫徳川慶喜奉還大政薩長二藩参朝議朝廷命仙台藩討会津氏我藩
出兵應援之尋鎮撫三郷東下総督軍事於是奥羽諸藩連署請宥会津氏之罪総督府却之
諸藩請是皆薩長二藩之所為幼冲天子何與知也乃同盟於白石城挙兵曰除君側之悪次
當此時君奉藩命在京師目薩長藩士挙之作為暴横聞奥羽挙事也自大坂東航過仙台見
藩老但木土佐論争意見相合直帰盛岡会議三日藩論一決先是秋田藩背盟約仙台荘内
二藩挙兵進撃君之與向井長豊將兵二遣竝進身先士卒冒矢石陥十二所畧大舘所在克
勝我威大震既而白川越後諸道連敗米沢仙台二藩謝罪請降藩主命君謝罪吾概然曰事
至此天也余且一死以代一藩挺身至秋田城下陳状表誠総督府諭還盛岡待後命己而官
軍入盛岡逮君護送東京明年四月就刑於盛岡寳明治二年六月廿二日享年三十九君固
分死其就刑也頭堕地而目不瞑人皆異之葬聖寿寺先螢以其為刑死法不得建碑配小笠
原氏生二男皆夭三女一嫁毛馬内氏一嫁宮部氏一女太禰承後今茲廿二年四月朝廷許
戊辰役死藩事者再興家名君其可以冥地下矣有志者相謀建石于城北桜山神社戊辰戦
死碑側使余銘余嘗以文字受君不可辞乃銘之銘曰
嗚呼□君 藩之閥閲 蚤繁名望 自任柱石 歴事三世 為舟為楫
何為處変 遽謬順逆 難然遽謬 心則清潔 自古英雄 難無疵缺
心荀潔清 非可深責 恩命新降 罪命斯釈 再興其家 永賜不絶
我泣以銘 慰君霊魄
                                                 山崎吉謙撰
                                                 太田 孝書

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