大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

元会津藩士林三郎惟純

2010-09-18 | 會津
東京谷中の佛心寺にもと麹町にあった麹渓塾の松平慎斎一族の墓域がある。
慎斎は号、稱は謹次郎、名は義□(甬に戈)。昌平坂学問所書生寮に入るまで、
この麹渓書院で学んだのが会津藩士秋月悌次郎、のち、この麹渓塾の塾頭に
なったのが会津藩士の林三郎だった。



  

この佛心寺松平家の墓域から3・4mのところに林惟純(これずみ)
(明治廾九年三月卅一日歿)とその横に小さな林奇男(くしお)
(明治廾九年九月十八日歿)の墓碑がある。奇男は林惟純の長男で、
十五歳のとき東京で没している。

 

戊辰直前、京都で会藩の兵を訓練していたと自叙伝で述べている江原素六は、
幕臣で戊辰後、沼津兵学校の教授となり、のち、東京の麻布学園を創立者した。
「江原素六先生伝」の維新当時の話として「余は蟻川塾に在って、屢々麹町麹渓塾
に出入せり、其塾長に会藩人にして林三郎という極めて温厚篤實なる君子人あり、
京都及び諸藩の情報を得るに少なからざる便利を得たり」。

後年、専修大学初代学長となった彦根藩士相馬永胤は幕末ころ、父と
共に江戸定府の部屋住みであったという。その「相馬永胤伝」に、
「当時ノ余ノ希望ハ、大ニ和漢ノ書ヲ読ミ、広ク天下ノ士ニ交リ国家ノ為
メ、大々的活動ヲ為スニ在リタレハグズグズシテ藩邸内ニ居ルヲ好マズ、
父ノ快諾ヲ得サリシモ家庭ヲ出テ藩邸ヲ去リ、麹町六丁目谷ニ在リタル
教授所ニ入学スルコトニ決心セリ。此教授所ハ聖堂ノ分校ノ如キモノニテ、
松平謹次郎ト云漢学者カ担当セラレシ所ニテ、当時同人ハ死去セラレ、
名義上大嶋某ト云人カ教頭ナシドモ其実元会津藩士ニシテ、当時幕臣トナリタル
林三郎ト云人カ教務上ノ事ヲ担任シ居リタリ、此人ハ温厚徳実ノ漢学者ニテ、
又、勝安房ノ手下トナリ、幕府ノ為メ幕府ト会津トノ間ニ種々周旋ヲ為シ、
天下ノ事情ニ通シ居ラレタルヲ以テ、余ハ、此人ヲ信頼シ最初教授所ニ
寄宿セシモ後、同人ノ私塾ニ入リ教授所へハ通学セリ」と。

昭和63年、熊本大学に寄託された肥後細川家幕末維新期史料の調査が行われた。
主に江戸で入手した情報を書留めた「尊攘録 探索書元治元年 機密間」に
緊迫した会津藩の様子が出てくる。

元治元年四月二十九日聞取、秋月悌次郎より、諸侯帰国、幕府基本不立、
「諸藩ハ迚も幕府ハ頼ニ不被致云々」、「御威光衰へ候」と嘆息の話を聞く。
五月十三日聞取、大樹公帰府につき、会津藩歎息の事
六月十三日聞取、京都浪士召捕の件を会津藩より聞込。
六月十四日聞取、幕閣内紛を京に報ずるので、会津藩内部で異論があり、
今日迄使を出さず。
十月六日聞取、御進発御模様の儀、「今六日会津藩林三郎、竹本甲斐守様江罷出」、
これは、第一次長州征討で徳川 慶勝を長州へ進軍させた話だと思われ、林三郎が
会津藩公用方として活躍していた時期。

文久三年頃に勝海舟と会っていた会津藩士は公用方の小野権之丞、野村左兵衛、
松坂三内、大砲方御雇勤中沢帯刀。この頃、海舟門下だった坂本龍馬の名も頻繁に
出てくる。

海舟日記に林三郎の名がでてくるのは慶応二年(1866)になってから。
同年六月九日「会藩林三郎、尾州之水野彦三郎来る、西国之形勢且御所置を問う、
別ニ答ふる処あらす」と素っ気なく答えているが、同月二次長州征伐始まり、
廿二日井伊、榊原家大敗走にて、後筆にて関東決議甚不可を将軍江其理言上、
秘密之事也と筆を加えている。廿三、廿四日に海舟は会藩公用人手代木勝任に
愚存を伝え、廿五日船で京に着き、会家に一書を送っている。何を伝えたのだろう。

慶応四年、鳥羽伏見の戦いの直後、林三郎は秋月悌次郎、広沢富次郎を
伴って勝に会っている。明治二年正月四日には林三郎来訪とある。この
ときの江戸東京博物館史料叢書「勝海舟関係資料 海舟日記」の注には林惟純
(駿府藩使番幹事役附属)となっており、いつの間にか駿府藩に仕えていた。

戊辰後、旧幕臣で組織(会長榎本武揚)された「同方会」の会報に、
明治二年二月調の静岡藩職員録が載っていた。
幹事役 勝安房、幹事役附属 林三郎と記載があり、勝の手足となって
働いていたことがうかがえる。同時に記載のある寄合衆林又三郎の名の下に
惟純と書込みがなされていた。この事が、三郎が静岡学問所と関わりが
あるように勘違いしてしまった。

会津藩大砲隊長林権助の子も林又三郎、林 羅山の通称が又三郎、上野
忍ヶ岡に建てた学問所先聖殿はのちの昌平黌と発展したが、林又三郎
(学斎、諱昇。兄は林鶯渓)は林大学頭家の当主で、前田一郎著
「駿遠へ移住した徳川家臣団」によると林惟純の履歴は、慶応元年
昌平校大学頭、慶応四年江戸表寄合頭とあった。

昨年、西伊豆の旧会津藩士を調べた時、この林三郎と林又三郎の
職歴が混ざって混乱してしまった。林又三郎が会津院内の忠恭霊神
(八代容敬公)碑の撰文をした林昇と気が付いたにはだいぶ後の事だった。

明治三年三月末の静岡藩職員録に小島勤番組之頭、林又三郎。開業方藩政
補翼手ニ附可相勤候、林三郎と別々に記載があった。この時の藩政補翼が
山岡鉄太郎、軍事掛少参事が荏原素六、兵学校頭取が西 周、沼津病院医師
頭取が杉田玄白の義理の孫、杉田玄端であった。

明治二年七月、明治政府は神祇官を復活させ太政官よりも上位に置き、太政官の
下に民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の各省を設置し二官六省制とした。
神祇官の職掌は古代の神祇官元来の職務である祭祀、祝部などに加えて、
新たに諸陵と宣教が加えられた。
太政官公文録に静岡藩の教宣掛として林三郎として名が出てきたが、
静岡学問所の漢学教授としての林三郎の名は見つけることが出来なかった。

産経新聞コラム欄に記載があった林三郎惟純の履歴は、父は源太、
兄は大野原で戦死した林源治(源輔、三石二斗二人扶持二ノ寄合)。
三郎の妻忠子は松平謹次郎の娘、長男奇男から三男まで早世、
四男義人は松平家に養子、五男良材が林家を継承したという。

幕末に江戸や京都で活躍した秋月悌次郎や手代木勝任が会津では疎まれたと
同じように、幕末に活躍した林三郎のことも会津ではあまり知られていない。
やはり、西郷頼母と同じように恭順派だったのだろうか。

林三郎の死後、静岡に戻った林一族の墓域はお万の方の供養塔や勝海舟の
実母と妹のお墓がある静岡市沓谷の蓮永寺にあります。


林一族と 林惟純、室忠子の墓
 
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13 コメント

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西郷頼母 (池月映)
2013-07-28 10:19:02
 西郷頼母研究家の牧野登氏は、日光東照宮で松平容保と再会したのは、林三郎と親しい勝海舟の仕業ではないかと発表しました。
 伊豆の松崎町で頼母が林三郎に身を寄せ、謹申学舎塾頭になったことは知られていますが、二人にはどのような関係があったのでしょうか。頼母と覚海舟との関係はあったのでしょうか。
 頼母の功績である「晃山叢書」や立ったままの写真(身長140センチ)は、研究家の著書になく、不思議な感じがします。
 頼母が教えたという大東流合気柔術は、頼母のパフォーマンス(創作)と牧野氏は発表しました。これは、私の研究で御供番の藩士、気を操る易者が武田惣角に教えたこたことを突きとめ、牧野氏が認めたものでした。
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西郷頼母の事 (大佗坊)
2013-07-29 14:18:35
池月映様 書込み有難うございます。管理人の大佗坊です。
日光で容保公と頼母を再会させたのは勝海舟ではないかと発表した牧野氏の論文は未見なので何とも言えませんが、二人の結び付を考えた人物はかなり朝廷内で力を持っていたと考えています。静岡の林三郎を頼り頼母が松崎に行ったのは間違いのないところですが、林三郎が松崎の依田佐二平を直接知っていたとも考えにくく、松崎に誰か仲介者がいたのではないかと考えています。静岡市の臨済寺にある寺島造酒之助が建立した東軍招魂之碑があります。この碑文に林繁樹という名が出てきます。この林繁樹は旧会津藩士御鉄砲物頭(五百石)で、松崎で私塾を開いていた林繁樹と同一人物ではないかと考え、林三郎、林繁樹、依田佐二平のルートで頼母が松崎に来たのではないかと考えています。
晃山叢書十一巻原本の存在と確認が遅れた事により研究者の目にとまらなかったのではないでしょうか。頼母の立像の写真は堀田氏著書「西郷頼母」p144、日光東照宮社務所編「大日光58号」p102に記載があります。武田惣角に関しての資料は持ち合わせず、不勉強で頼母と武田惣角の関係は全くわかりません。推論ばかりでお役にたてず申し訳ございません。
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林三郎 (池月映)
2013-07-29 20:59:18
 ありがとうございます。大日光58号は見ております。西郷四郎資料館には、一人で立った写真がありました。林三郎と林繁樹は親子か兄弟の関係だったのでしょうか。
返信する
林三郎家の事 (大佗坊)
2013-07-30 09:01:21
池月映さま
林三郎の父は源太、兄は大野原で戦死した林源治(源輔、三石二斗二人扶持)ですが、会津側での林三郎に関する資料が見当たらず、残念ながら林三郎と林繁樹との関係は不明です。林繁樹の通称名が分らないので、ハッキリしませんが、要略諸士系譜にある林重徳系図の林代吉(物頭五百石)ではないでしょうか。会津に行った時に諸士系譜を調べようと思っています。
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林三郎について (LALA)
2018-10-10 13:52:29
林三郎は静岡学問所の準備等に大変尽力しました。徳川家臣団や産経新聞に書かれた前田氏は私の言葉を誤解なさったようですが、麹溪書院の書籍も大半、学問所や浅間神社に寄付したそうです。
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林三郎について (大佗坊)
2018-10-14 10:13:35
LALA様、書込み有難うございます。管理人の大佗坊です
海舟日記、慶應三年正月では会津藩士林三郎が慶應四年閏四月では註に旧会津藩士とあり、産経新聞記載前田氏の林惟純伝に、慶応四年五月、徳川家の存続がきまり、三郎は勝の補佐役に任命され駿府に移住したとあります。三郎がいつ容保に仕えるのを止めたのか、また勝海舟との出会いや伊豆での西郷頼母との関わりがハッキリしないでいます。伊豆の林氏は松崎の旧藩士林繁樹だと考えています。いずれにしても戊辰当時の史料を探して行きたいと思っています。
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林三郎について (LALA)
2018-10-24 18:06:44
ブログ以外のご連絡方法はございませんか?
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林三郎の件 (大佗坊)
2018-11-08 09:42:39
LALA様

いろいろ、ご教示有難うございました。
返信する
林三郎の件 (大佗坊)
2019-01-23 11:26:07
LALA様 連絡有難うございます
旗本の吉田という方は存じ上げないのですが、新撰組の斎藤一は藤田五郎と改姓したあと、会津藩士高木小十郎娘高木時尾(松平容保義姉照姫の裕筆、弟が高木盛之輔)を後妻にしています。
海舟日記には、会津藩公用方とよく名が出てきます。三郎は公用方と海舟の仲を取り持ったのではないかと思っています
返信メールは不着でしたので、こちらに記載しました。
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西郷頼母 (池月映)
2021-02-05 10:32:21
西郷頼母と林三郎は直接交流があり、林三郎は会津藩士ではなく、静岡藩士で勝海舟の配下だとすると理解できます。勝海舟は戊辰戦争で徳川家を守るため、会津藩を切った形になった。

日光東照宮の再興は勝海舟の保晃会設立に始まり、明治25年勝海舟の揮毫により碑が建った。日光には勝海舟が名付けた町名(安川町)もあり、頼母と交流があったのでしょう。
罪ほろぼしではないが、明治8年西郷頼母は都々古別神社宮司、明治13年日光東照宮禰宜になった。松平容保は勝海舟・西郷頼母のお陰で宮司になった。容保は頼母と和解して委任状、日光には3回しか行かなかった。このように理解しています。
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