大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

上越高田の会津藩士謹慎場所(三)

2011-09-13 | 會津

 

26、守栄山善行寺(寺町3-5-35)結城政朝により天文6年(1537),茨城結城に創建、開山は日土といわれている。福井北庄から松平光長とともに高田寺町に移る。山門は松平綱國が寄進している。一番炮兵隊士分組頭猪狩恒五郎、中村鎮之助、同士分諏訪幸三、赤羽忠之助、小林繁之助、同侍分樋口類蔵、川田善蔵、同分足軽北見金蔵、他

  

 27、吉祥山日朝寺(寺町3-5-43)文永11年(1274)、直江津の祥朝寺の蒙現が日蓮に帰依して改宗して名を日朝と改めたのが始まりという。この寺の毘沙門天が子供に姿を変え、日蓮を迎えにいったという伝説も残っている。朱雀組小隊頭小池清八、同士分樋口八太郎、池上忠太郎、池上勝太郎、浅井新次郎、同侍分古川藤太郎、鈴木徳蔵、小林善次郎、同足軽分樋口太吉、神山吉之助、他

 

 

  28、法光山長遠寺(寺町3-2-3)永仁2年(1294)、日印により福島村に創建され、寛文5年(1665)の地震の後、法光山養命寺と合わせ同寺に境内に移り、法光山長遠寺と号する。足軽寄合隊士分宮下藤七、星野恒之進、同足軽分穴沢冨四郎、小林百助、横田勇之助、他

  

 29、念妙寺(移転先)(寺町3-2-6)13の春日山念妙寺(寺町3-16-6)の仮寺務所(日枝神社横)

 

 30、紫雲山引接院来迎寺(寺町2-4-3) 証空が直江津五智の居多神社で法談をして、奈良当麻寺別院の名を移して来迎寺とした。高田城築城のとき現在の場所に移る。

会津藩士謹慎者の病院所として使用

 

31、青龍山常栄寺(寺町2-4-16)道念により永享10年(1438)に創建された。境内に塔頭満願寺があったが、今は廃寺となっている。郡士分鈴木源太、米沢治助、同士分穴沢常蔵、古川鉄之助、同足軽分横山岩八、二瓶辰吉、他

  

32、迦宝山光樹寺(寺町2-4-18)始め群馬館林で榊原家の菩提寺として創建、開山は善真、榊原氏の移封に伴い寺地を移し、寛保2年(1742)、榊原政永に従い高田に移り、明治十九年現在地に移る。

光樹寺・得願寺・法顕寺・御國寺(今、廃寺)の四ヶ寺で輪番に死亡者の納棺と葬式を引受、埋葬所を狼谷とした。

  

得願寺(上越市大町4-3-28)

 

法顕寺(上越市大町4-3-24)

  

 33、終南山悟真院善導寺(寺町2-5-5)文明7年(1475)、蓮開により直江津西浜に創建され、高田築城後に現在地に移る。藩士が謹慎していた安養院、長徳院、正学院、養樹院、慶安院、正覚院等、数多くあった善導寺坊舎は今、まったく残っていない。

朱雀隊中隊並士分横山傳蔵、加須屋貞助、同付属士分町野幸吉、山浦数馬、同組士分飯沼源八、赤羽辰之進、同組士分服部時江、同侍分穴沢忠吾、山川常吉、同組付属士分太田鉄之助、田中清七、寄合組士分高木豊次郎、高橋常四郎、他。(各坊舎に分散)

  

上越高田の会津藩士謹慎場所(一)

1、了源寺、2、岡本山本浄寺、3、笠原山本誓寺、

4、新井山円福寺、5、府中嶋長楽寺、6、海潮山高安寺、

7、高陽山太岩寺、8、金津山真宗寺、9、礦波山法林寺、

10、自開山常国寺、11、高見山願重寺、12、大龍自山天林寺、

上越高田の会津藩士謹慎場所(二)

13、春日山念妙寺、14、府中山願念寺、15、飯塚山最尊寺、

16、光明山浄国寺、17、一沢山真受院浄林寺、18、春日山長命寺、

19、安伝寺、20、西金山光国寺、21、春日山光学寺、

22、五台山常住院大厳寺、23、法頂山妙国寺、24、高顔山常顕寺、

25、日峰山海隣寺

 

上越高田の会津藩士謹慎場所(四)

 

 

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