数年前、金沢市の野田山にある加賀藩主前田家歴代の墓所にいった。
左)野田山前田利長墓 右)前田利常墓
ここの墳墓及び碑は平成21年(2009)、国の史跡名勝記念物として指定を受けている。説明に「加賀藩主前田家墓所は、江戸時代、加賀・越中・能登三カ国を領した加賀藩主前田家歴代の墓所であり、石川県金沢市の野田山に営まれた歴代墓所と、富山県高岡市に造営された前田利長墓所の2カ所からなる」とあり、野田山の藩祖前田利正室芳春院(まつ)隣にある前田利長墓以外に高岡市に利長墓があるのを知った。高岡市がどこにあるのか知らなかったが、何時か行ってみたいと思ってから三年経った。
高岡市の前田利長墓所は、利長の三十三回忌に当たる正保三年(1646)、三代利常が利長隠居・終焉の地高岡に造営したものだという。なぜ利長が焼失した富山城のあと高岡に城を築いたか分からないが、この高岡は前田氏本城、金沢城の鬼門に当たっている。前田利長墓所は真北から5度東を向いている。どこに正対しているのだろうか。
利長墓所を訪ねた日は、朝からの雨で靴がビシャビシャになる。水はけの悪い参道には参った。墓所は外堀一辺百間(180m)の正方形(約1万坪)で、二重の堀で囲まれ、中心には、戸室石の二重基壇上に笠塔婆型墓碑が立つ。境内墓の前に「七重の石の塔燈籠あり高さ二十丈余と云丸き石中にあり是を千人釣ノ石と云此燈籠二基大坂よりとりよせられしに一基は故ありて建られず」とあり、大名個人墓として全国最大級の規模を誇るという。野田山の前田家墓所にある利長墓が何時、造成されたか判らないが、三代利常が二代利長に大恩を感じていたことは間違いない。それにしてもなぜ、高岡に利長墓を造営するのに三十年以上の月日がかかったのだろうか。高岡史料に「利長公は以て天下の平定を速ならしめん為、以て百万石の加藩を維持せん為慶長十九年五月二十日高岡城に於て自害を遂げられしなりとは古来我高岡地方に傳ふる口碑なり」との記述があった。口碑とは「石碑のようにながく後世に伝わりのこる」で、こんな話が残っているのを初めて知った。謀反と生涯疑われた利長について、幕府に気を使ったのだろうか。利長三十三回忌の年は第三代前田利常五十三歳、ちょうど利長が亡くなった歳と同じになる。利常、法円寺に於て利長の火葬を行うとあった。この時の利長の埋葬地は法円寺(現端龍寺)、繁久寺(旧地)、現利長墓のうち、どこだったのだろう。加賀藩史料に「正保元年(1644)、高岡瑞龍寺利長(英賢)石塔浅加左京奉行たり」また「正保二年(1645)、前田利常高岡繁久寺に土地五萬参千七百歩余寄進す」とある。一歩は一坪なので五万坪以上の広さになる。ここに墓所壱万坪が含まれるのは分からなかったが、繁久寺は永禄五年(1562)射水郡南條の城主加納中務と云者の発起で、むかし守山に在り、利長在城の折、参拝した寺で利常の命により正保三年(1646)、高岡の利長墓前に移転させ、寺領五十石を与え墓所の墓守供養を命じた。
墓所から利長の菩提寺まで直道八町あり八町道と呼ばれている。この道も東西の基軸から各5度ズレがあった。利長墓所や瑞龍寺、それをつなぐ参道の八町道を地図上で見ても、それぞれの向きがバラバラで美しくない。念の為、瑞龍寺の総門と法堂を結ぶ線と東西の基軸と比べたら5度北に偏っていた。この偏りはなぜだろうと思いながら瑞龍寺に向かった。
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