大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

越中 高岡

2019-07-24 | 

高岡市のある越中銘菓店の栞に「西越の大都市高岡は昔関野(志貴野)と呼ばれる荒涼とした原野でしたが慶長十五年前田利長が退隠の地としてここを選び城下町を築いて今日の隆盛をみるにいたりました云々」とあった。たしかに荒涼とした原野に城下町が出来れば、かなりの賑わいになったと想像するが、北陸新幹線の新高岡駅に降りてびっくりした。
  
西越の大都市の玄関先でもある高岡との連絡の新幹線高岡駅とJR城端線新高岡駅は改札外連絡の無人駅で、しかも本数が1時間に1本から数本の運行、新幹線新高岡駅のタクシー乗り場には客待ちのタクシーがたったの1台のみ、キョロキョロしている間にタクシーがいなくなった。結局本数の多いバスでJR高岡駅に向かい、そこから目的地に行くことにした。高岡駅に着いて驚いた。客待ちのタクシーが一台もいない。駅の観光案内所でタクシー会社の番号を聞いて、配車を頼んだら、混んでいるので何時になるか分からないがタクシー乗場で空車が来るのを待っていてくれと言う。20分経っても1台も来ない。また、タクシー会社に電話を掛けた。そのうち他社のタクシーが来るかも知れないからタクシー乗場で待っていてくれとの返事だった。これが高岡市で一番所有台数の多い会社の対応だった。駅も綺麗、道路も広く立派に感じるが、えらい所に来てしまったというのがこの町に来て最初に思った感想だった。電車の本数は少ない、タクシーは来ない、路線バスのコース、本数は少ない、この町の勧める観光コースは歩け、歩けで回れというのだろうか。「飛越能地域の玄関口」というキャッチコピーがある。北陸新幹線高岡駅建設に伴い在来線の駅開発に100億円以上投資したという。駅玄関にすべてを投資し、観光インフラまで手が廻らなかったのだろうか。高岡は2泊3日の短い旅だったが、観光客に殆ど会わなかった。初日の夕方、駅前商店街に行ったら、商店の一斉休業日かと思ったほどシャッターは閉まって人通りも全く無くビックリした。
高岡駅前午後6:00
 
左)高岡駅午後5:30        右)高岡駅朝8:30 前方タクシー乗場
 
慶長十年(1605)、加賀藩二代藩主前田利長は富山城に隠居した。慶長十四年三月、城下から出火、城も侍屋敷残らず焼失し、「居城普請之儀、何方に而も其方次第候」と築城の許可を徳川家康より得て、関野に築城の作事を急がせ、加越能三州より材料と人を集め、同年九月には完成させたという。加賀藩の雑記集「三壺聞書」に「能州より其の頃大杉松材木・雑木等取寄せ、又庄川より飛騨材木、三ヶ国夫人足・諸奉行人集り、早々出来し、金澤より両愛宕波着寺法印召よせられ御祈祷仰付らる。その頃関野を改め高岡と名付らるゝ」とある。城の周りに小高い岡でもあるのかと思ったら、「詩経」大雅・巻阿にある「鳳凰鳴矣于彼高岡 梧桐生矣于彼朝陽」から高岡と名付けたという。鳳皇とは誰のことを言っているのだろうか。石川県史の編纂員であった日置謙が前田家からの依頼により編集した加賀藩の編年史料集「加賀藩史料」重輯雑談の引用として、「越の高岡に定塚あり、下の町端に定塚と云所の小塚どもあり。是は慶長十四年酉の歳高山南坊(高槻城主高山右近)に縄張被仰付、関野に新城を被築、初高丘と云、後に被改高岡云々」と加賀藩加判衆であった高山右近に縄張りを命じ、城設計に関して書を神尾之直(図書)と稲垣與右衛門に与え家臣の屋敷割を相談させている。後北条の家臣で鎌倉鶴岡八幡宮造営に係った神尾治部入道と前田利長家老だった神尾図書と関係があるのだろうか。

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