宮崎十三八氏の幕末維新人名事典に会津藩士野口九郎大夫墓は品川大崎の妙光寺と記載があり5年前、お寺を訪ねた。23年10月、3年ぶりに妙光寺を訪ねた。その前が2年ぶりだったので、5年間で3回、訪ねたことになる。野口家の墓域は正面階段右側の墓域ではなく、階段を上った庫裏の奥側墓域です。
妙光寺墓域(裏門から)
初めての訪問時に「野口先祖累代之霊 明治四十四年十二月建之 勲五等 野口鉄彦」と書かれた碑を見つけたが鉄彦氏と野口九郎太夫成元との関係が判らなかったため、その時は旧会津藩士野口家の墓標と特定できなかった。今年、明治初期に旧会津藩士の子弟が多く在籍した海軍兵学校や三菱商船学校関係の資料を見ていて明治23年13期三菱商船学校卒に青森出身野口鉄彦氏の名前があり、会津図書館に野口鉄彦氏の弟邨彦氏が作成した野村家の系図が残っていた。この系図によると、この鉄彦氏は初代九郎右衛門成重から数えて九代目(八代九郎太夫成元)にあたる。
初代野口九郎右衛門成重墓 野口氏家紋丸雁
大正三年十一月(1914)、海軍省は第1次世界大戦序盤にドイツ領南洋諸島攻略に派遣した南遣枝隊より西海岸のメキシコ革命の影響を受けるカリフォルニア移民の保護のため遣米枝隊を編成し派遣した。この時の運送船鳥取丸の船長が勲五等野口鉄彦だった。
野口家菩提寺の妙光寺。5年掛ってやっと旧会津藩士野口家のお墓と特定できたことになる。その間、神戸の追谷墓園に野口九郎太夫の弟でアーネスト・サトウに仕えた野口富蔵成光のお墓も訪ねた。
旧会津藩士野口家の会津での菩提寺隆国山法華寺。
コメント有難うございます。野口家では八代(九郎大夫成元)、
九代の方が鉄彦を名乗っています。明治以降の戸籍ならまだ
請求することができますので早いうちに請求された方がよろしいかと
おもいます。野口鉄彦氏は商船学校十三期卒(明治二十三年)で、
郵船で船長になられたと思います。日本郵船歴史博物館が横浜に
あり、親戚であればかなり詳細な人事記録が判るとおもいます。