大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

東本願寺と西本願寺

2018-10-19 | 

京都渉成園から西に真っすぐ進むと烏丸通にぶつかり、正面に東本願寺御影堂門が見える。
 
お東さんとも呼ばれる真宗大谷派東本願寺の正式名称は真宗本廟、お西さんの浄土宗本願寺派西本願寺は龍谷山本願寺という。大谷大学は東本願寺の学寮、龍谷大学は西本願寺の学寮がそれぞれの母体だという。古来、浄土教系の宗派を広く一向宗と呼んだ経過もあり、一向衆による一向一揆、時宗と、一向宗ふくめての宗名論争もあって宗徒でもないと、どこがどう異なるのか判別するのが難しい。織田信長と本願寺第十一世顕如が石山本願寺で戦った石山合戦で天正八年(1580)和議が成立したが、顕如長男教如は抗戦を続け、顕如と対立した。顕如の後を一旦は教如が引きついたが、豊臣秀吉により隠退処分をうけ、顕如三男准如に宗主を譲らされた。秀吉の死後、徳川家康に土地の寄進を受けた教如は慶長九年(1604)、御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。以後、東本願寺は徳川幕府との結びつきが強くなった。
 
 
 
 
  
鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は東本願寺派御坊をたどり当時、南大阪にあった会津領を目指したのではないだろうか。そこから親藩である和歌山藩を頼ったが受け入れられず、結局、秘密裏に和歌山加太から船で関東に逃れている。一度は東・西の本願寺を訪ねなければと思いつつ、いつも素通りだったので今回、初めて訪ねた。
東本願寺は江戸時代、四度の火災に見舞われお堂は国宝指定されていないが、西本願寺は御影堂、阿弥陀堂、飛雲閣、書院、唐門など建造物が国宝指定されている。雨も降っていたせいか東本願寺には参拝者も少なく、ひっそりとした境内が広く感じる。昭和の換地処分地積では東本願寺が二万二千五百九十七坪、西本願寺が三万三千八百五十二坪と京都のお寺さんの中では大きい方で、因みに京都では仁和寺の処分地積十四万九千坪が一番の広さだった。国宝に指定されている唐門は、本願寺唐門、豊国神社唐門、大徳寺唐門の三件だけで、本願寺唐門は昨年、昭和58年(1983)以来34年ぶりに開けられたという。この門は、その見事さに日の暮れるのも忘れると云うことから「日暮の門」とも呼ばれ、伏見城の遺構とも伝わるという。この唐門へは、大学のキャンパスみたいな所を通って行った。龍谷大が此処にあるのをしらなかった。文学部だという。少し学生を眺めていようと思ったが、大学のガードマンがこちらをみているので止めた。
 
 
 
 
 
 
昭和8年、日本を訪れ3年間滞在して日本各地を回り、桂離宮を褒めたたえ、日光東照宮を酷評したドイツの建築家ブルーノ・タウトが本願寺唐門を見て、何と言うだろうか。江戸幕府から明治政府に政治機構が変われば、前時代に評価の高かったものも評価を下げる。絢爛の反対は質素である。タウトが来日した1933年はナチスが政権を握った年でもある。タウトはナチス政権への恐れからか独裁的な政治的権力者にたいする嫌悪感が強く、独裁時代の価値観の否定からその美意識も否定するのではないだろうか。日本と西洋では宗教観や死生観、自然に対する意識の違いもあり、歴史的伝統と価値観、伝統の基盤・原点をどこに置くかでも美的感覚は異なる。素人は精巧な職人の造形と艶やかさに庭園とは別の驚きを持つ。残念だったのは西本願寺唐門を訪ねた時は、雨がザーザー降りで、色彩豊かな建築物を見るときは真っ青な空の時に見たかった。

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