大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

妙心寺塔頭 龍泉庵

2019-05-01 | 

「妙心寺四派」の一つ、龍泉派の本庵、龍泉庵に向かう。
 
 
龍泉庵は文明十三年(1481)、開基は細川勝元子政元で、景川宗隆禅師が妙心寺九世雪江宗深禅師から妙心寺山内に十五丈四方の地を与えられ、一庵を営んだのが始まりだという。龍泉庵の方丈前庭は枯山水のスッキリとした禅寺らしい庭で何かほっとする。
 
 
 
昔、教科書で見たことがあるような手長猿の掛軸が展示してあった。「枯木猿猴図」で国指定の重要文化財で本物は京都国立博物館にあるという。手長猿の絵はたしか国宝だったのにと思っていたら、国宝は京都大徳寺所蔵の中国画家牧谿による「絹本墨画淡彩猿鶴図」で、ここに描かれている親子の手長猿と勘違いしていた。レプリカなのに撮影禁止にしている。どうせなら精密写真にして展示して撮影させれば好いのにと思う。自宅に戻ってネットで龍泉庵、長谷川等伯「竹林猿猴図」を調べたら、天保乙未年(1835)十一月の花園雑華院第十一世暘山楚軾による背墨書の写真が載っていた。その中に江府蔭涼山祖心尼が出てきたので驚いた。この裏書によれば加賀小松城主前田利長(前田利家子、加賀前田家二代)が所有していた屏風で、利長没後、一隻は江戸蔭涼山済松寺の祖心尼に寄附し、一隻は雑華院に納めたとあり、そのご済松寺の一隻は焼失したとある。雑華院の開基は祖心尼の父牧村兵部利貞(利休七哲の一人)、開山は一宙東黙として天正十一年(1583)創建された。龍泉庵建替のとき、御祝の品として雑華院から龍泉庵に贈られたと伝わっている。一宙和尚は牧村利貞の弟と伝わる。祖心尼の最初の夫は、加賀八家前田対馬家二代前田直知で後、牧村一族の切支丹を疑われたのか離縁され、蒲生家家臣町野幸和に嫁いだ。前田直知と祖心尼との子直成の子直良は牧村家を継ぎ、町野幸和の後を継いだのが春日局の兄、斎藤利宗三男の幸長で、町野幸和と祖心尼との子たあと岡吉右衛門(石田三成の娘小石と岡重政の子)との娘が徳川家光の側室、振の局で千代姫の生母です。千代姫は尾張徳川光友(尾張藩二代藩主)に嫁いだ。牧村利貞の祖父稲葉一鉄の兄弟稲葉通明の孫が春日局、春日局の孫稲葉正通に嫁いだのが会津藩主保科正之の娘の宮姫。春日局の父斎藤利三の母は明智光秀と兄弟姉妹、戦国武将斎藤道三の正室は明智光秀の祖父明智光継の娘。斎藤道三の側室深芳野は稲葉一鉄と兄弟姉妹。祖心尼が再婚した町野幸和父町野繁仍の弟秀俊の孫町野重成は会津藩に仕えた。系図のこれだけ入り組むと訳が解らなくなる。
 
庫裏の土間に捕り物の三道具(突棒・刺叉・袖搦)があった。お寺のなかで棒や三道具、初めてみた。何に使ったのだろうか。

竹林猿猴図背墨書
枯木通臂猿双㡠長谷川等伯筆
加州小松城主前田美作守利長卿
所持之屏風也或夜利長恍惚之間
猿以手掴髪利長把短刀斬之斬得
書猿之腕因是世稱曰腕切猿猴利
長歿後寄附江府蔭涼山祖心尼公
以其一隻納於當院涼山仁留腕切之
一隻其後焼失矣予改双幅欲使
後者知来由也
 天保乙未年十一月 楚軾記

加賀八家墓所 玉龍寺(加賀八家前田対馬家菩提寺)
牛込済松寺(祖心尼菩提寺)

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