この、終戦当時の首相であった幣原喜重郎氏による証言を、ぜひ読んでください。
この証言は、国会図書館内にある資料からのもので、戦争放棄条項、憲法第九条が生まれたいきさつが、事細かに書かれています。
憲法のどこが押しつけか?
押しつけ論のウソは、いったい誰が、どんな目的で作り上げたのか。
以下の、幣原首相の言葉は、一言一句、彼のものか、そしてまた事実なのか、美化されたところはないのか、それはわたしにはわからん。
けども、日本自らが、世界平和への鍵をにぎり、そのドアを開けた国であったことがわかり、胸が熱うなった。
「世界は今、狂人を必要としている。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ」
なんちゅうすばらしい言葉やとかと思う。
これを今、チンケな政治家がいじろうとしてる。
日本が、原爆を落とされて重傷を負った日本が果たした歴史的使命を、浅はかな人間に奪われてたまるか!
死中に活!
肝っ玉が座った。
↓以下は、証言の中で特に感銘を受けた言葉を抜粋させてもろたもの。
『原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終った。
世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争。
平和の名をもってする、別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めからないもの。
原子爆弾が登場した以上、一刻も早く軍拡競争を止めなければならぬとわかっていても、それは不可能。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが、軍拡競争の果ての姿。
軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだ。
要するに、世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である』
↓以下、転載はじめ
この資料は、国会図書館内にある、憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)と題されたものを、
私(今川)が、川西市立図書館を通じて、国会図書館にコピーを依頼して手に入れ、
さらにそのコピーを、ワードに移し替えたものである。
原文は縦書きであるが、ホームページビルダーの性質上、横書きで書いている。
昭和三十九年二月
幣原先生から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー平野三郎氏 記―
憲法調査会事務局
は し が き
この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
昭和三十九年二月
憲法調査会事務局
第一部
私が、幣原先生から、憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。
同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。
場所は、世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、
当日は、私が、戦争放棄条項や天皇の地位について、日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて、幣原先生にお答え願ったのである。
その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、以下はそのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を、整理したものである。
なお、当日の幣原先生のお話の内容については、このメモにもあるように、口外しないようにいわれたのであるが、
昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみて、あえて公にすることにしたのである。
元衆議院議員・平野三郎氏:
かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから、是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。
あれは、現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ、独立の暁には、当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。
幣原喜重郎氏:
いや、そうではない。
あれは一時的なものではなく、長い間、僕が考えた末の、最終的な結論というようなものだ。
平野氏:
そうしますと、一体どういうことになるのですか。
軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。
幣原氏:
それは、死中に活だよ。
一口に言えばそういうことになる。
平野氏:
死中に活といいますと……。
幣原氏:
たしかに、今までの常識ではこれはおかしいことだ。
しかし、原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終った、と僕は思う。
何故なら、この兵器は、今後更に幾十倍、幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は、短時間のうちに、交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。
そうなれば、世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
平野氏:
しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。
幣原氏:
そうだ。
世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。
しかし、実際問題として、世界中が武器を持たないという真空状態を、考えることはできない。
それについては、僕の考えを少し話さなければならないが、僕は、世界は結局、一つにならなければならないと思う。
つまり、世界政府だ。
世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて、一つの政府の傘下に集まるというようなことは空想だろう。
だが、何らかの形における世界の連合方式というものが、絶対に必要になる。
何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少なくも、各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ、世界の平和は保たれないからである。
凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は、最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。
しかしその武力は、一個に統一されなければならない。
二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、
交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも、武力が威嚇手段として行使される。
したがって、勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には、無限の軍拡競争が展開され、遂に武力衝突を引き起こす。
すなわち、戦争をなくするための基本的条件は、武力の統一であって、
例えばある協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々が、進んで、且つ誠意をもって、それに参加している状態、
この条件の下で、各国の軍備が、国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、
それに反対して結束するかもしれない、如何なる武力の組み合わせよりも強力である、というような世界である。
そういう世界は、歴史上存在している。
ローマ帝国などがそうであったが、何より記録的な世界政府を作ったものは、日本である。
徳川家康が開いた、三百年の単一政府がそれである。
この例は、世界を維持する唯一の手段が、武力の統一であることを示している。
要するに、世界平和を可能にする姿は、何らかの国際機関が、やがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、
その同盟が、国際的に統一された武力を所有して、世界警察としての行為を行うほかはない。
このことは、理論的に昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。
しかし、原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す時が来た、と僕は信じた訳だ。
平野氏:
それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は、大国同志が国際的に話し合って決めることで、
日本のような敗戦国が、そんな偉そうなことを言ってみたところで、どうにもならぬのではないですか。
幣原氏:
そこだよ、君。
負けた国が負けたからそういうことを言う、と人は言うだろう。
君の言うとおり、正にそうだ。
しかし、負けた日本だからこそできることなのだ。
おそらく世界には、大戦争はもうあるまい。
もちろん、戦争の危機は、今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。
第二次世界大戦が、人類が全滅を避けて戦うことのできた、最後の機会になると僕は思う。
如何に各国が、その権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、
いかなる理想も人類の生存には優先しないことを、各国とも理解するからである。
したがって各国は、それぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題は、どのような方法と時間を通じて、世界がその至高の理想に到達するかということにある。
人類は、有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起こるか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、
唯一つ断言できることは、その成否は一に、軍縮にかかっているということだ。
もしも有効な軍縮協定ができなければ、戦争は必然に起こるだろう。
既に言った通り、軍拡競争というものは、際限のない悪循環を繰り返すからだ。
常に、相手より少しでも優越した状態に己を位置しない限り、安心できない。
この心理は果てしなく拡がって行き、何時かは破綻が起る。
すなわち、協定なき世界は、静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、
その静けさがどれだけ持ちこたえるかは、結局時間の問題に過ぎないという恐るべき不安状態の連続になるのである。
そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮を身をもって体験してきた。
世の中に、軍縮ほど難しいものはない。
交渉に当たるものに与えられる任務は、如何にして相手を欺瞞するかにある。
国家というものは、極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを、交渉者に要求する。
虚虚実実千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争である。
平和の名をもってする、別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めからないものなのだ。
原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。
むしろ軍縮交渉は、合法的スパイ活動の場面として、利用される程である。
不信と猜疑が無くならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、
原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。
そのような瀬戸際に追いつめれても、各国はなお、異口同音に言うだろう。
軍拡競争は、一刻も早く止めなければならぬ。
それは分っている。
分ってはいるが、どうしたらいいのだ。
自衛のためには力が必要だ。
相手がやることは自分もやらねばならぬ。
相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。
その結果がどうなるか、そんなことは分らない。
自分だけではない。
誰にも分らないことである。
とにかく自分は、自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。
責任は自分にはない。
どんなことが起ろうと、責任は凡て、相手方にあるのだ。
果てしない堂々巡りである。
誰にも手のつけられない、どうしようもないことである。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが、軍拡競争の果ての姿であろう。
要するに、軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。
そうだ。
誰かが自発的に、武器を捨てるとしたらー最初それは、脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。
次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。
自分は何を考えようとしているのだ。
相手はピストルをもっている。
その前にはだかの体をさらそうと言う。
なんという馬鹿げたことだ。
恐ろしいことだ。
自分はどうかしたのではないか。
もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂った、と言われるだろう。
まさに狂気の沙汰である。
しかし、そのひらめきは、僕の頭の中でとまらなかった。
どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。
恐らくあのとき、僕を決心させたものは、僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。
何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。
今だ。今こそ平和だ。
今こそ平和のために、起つ時ではないか。
そのために生きてきたのではなかったか。
そして僕は、平和の鍵を握っていたのだ。
何か僕は、天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば、全く狂気の沙汰である。
だが今では、正気の沙汰とは何か、ということである。
武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果、もう出ている。
要するに、世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である。
平野氏:
お話の通り、やがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。
しかし、その日が来るまではどうする訳ですか。
目下のところは差当りは問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら。
幣原氏:
その場合でもこの精神を貫くべきだ、と僕は信じている。
そうでなければ、今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。
しかも次の戦争は、今までとはわけが違う。
僕は、第九条を堅持することが、日本の安全のためにも必要だと思う。
もちろん、軍隊をもたないと言っても、警察は別である。
警察のない社会は考えられない。
とくに、世界の一員として、将来世界警察への分担負担は、当然負わなければならない。
しかし、強大な武力と対抗する陸海空軍というものは、有害無益だ。
僕は、我国の自衛は、徹頭徹尾、正義の力でなければならないと思う。
その正義とは、日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。
そうした与論が、国際的に形成されるように、必ずなるだろう。
何故なら、世界の秩序を維持する必要があるからである。
もしある国が、日本を侵略しようとする。
そのことが、世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。
その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然、日本の安全のために必要な努力をするだろう。
要するに、これからは、世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ、死中に活がある、という訳だ。
平野氏:
よく分りました。
そうしますと憲法は、先生の独自の御判断で出来たものですか。
一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果、ということになっています。
もっとも、草案は勧告という形で、日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ、天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから、事実上命令に外ならなかったと思いますが。
幣原氏:
そのことは、此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ、僕は風邪をひいて寝込んだ。
僕が決心をしたのは、その時である。
それに僕には、天皇制を維持するという、重大な使命があった。
元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは、出来るものではない。
まして、天皇の問題に至っては尚更である。
この二つに密接にからみ合っていた。
実に重大な段階であった。
幸いマッカーサーは、天皇制を維持する気持ちをもっていた。
本国からも、その線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。
ところが、アメリカにとって厄介な問題があった。
それは、豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関しては、ソ連に同調する気配を示したことである。
これらの国々は、日本を極度に恐れていた。
日本が再軍備したら大変である。
戦争中の日本軍の行動は、あまりにも彼らの心胆を寒からしめたから、無理もないことであった。
日本人は、天皇のためなら平気で死んでいく。
殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の、不可分とも言うべき関係であった。
これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の評決では、アメリカは孤立する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を、同時に提案することを、僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は、日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。
故に、戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は、廃止されたと同然である。
もともとアメリカ側である豪州、その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆に、ソ連を孤立させることができる。
この構想は、天皇制を存続すると共に、第九条を実現する、言わば一石二鳥の名案である。
もっとも、天皇制存即と言っても、シンボルということになった訳だが、僕はもともと、天皇はそうあるべきものと思っていた。
元来天皇は、権力の座になかったのであり、また、なかったからこそ続いていたのだ。
もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。
世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが、天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が、天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側から、こんなことを口にすることは出来なかった。
憲法は押しつけられた、という形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら、実際に出来ることではなかった。
そこで僕は、マッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、
これは実に重大なことであって、一歩誤れば、首相自らが、国体と祖国の命運を売り渡す、国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君にさえも、打ち明けることのできないことである。
幸い、僕の風邪は肺炎ということで、元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰い、それによって全快した。
そのお礼ということで、僕が元帥を訪問したのである。
それは、昭和二十一年の一月二四日である。
その日僕は、元帥と二人きりで、長い時間話し込んだ。
すべてはそこで決まった訳だ。
平野氏:
元帥は簡単に承知されたのですか。
幣原氏:
マッカーサーは、非常に困った立場にいたが、僕の案は、元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。
しかし、第九条の永久的な規定ということには、彼も驚いていたようであった。
僕としても、軍人である彼が、直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、
賢明な元帥は、最後には非常に理解して、感激した面持ちで、僕に握手した程であった。
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。
それについて僕は言った。
日米親善は、必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが、果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾は、やがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は、想像に絶する。
世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びれば、アメリカも亡びる。
問題は今や、アメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。
いかにして、世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら、誰が世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は、一つの世界に向って進む外はない。
来るべき戦争の終着駅は、破滅的悲劇でしかないからである。
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は、自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時に、そのような戦争放棄国の出現も、また空想に近いが、幸か不幸か、日本は今、その役割を果たしうる位置にある。
歴史の偶然は、日本に、世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。
貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも、承認される可能性がある。
歴史の偶然を、今こそ利用する時である。
そして、日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う、唯一つの道ではないか。
また、日本の戦争放棄が、共産主義者に有利な口実を与えるという危険は、実際ありうる。
しかし、より大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。
世界はここ当分、資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。
それを不動のものと考えることが、世界を混乱させるのである。
未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って、創造発展していく道だけである。
共産主義者は、今のところはまだ、マルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言は、やがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。
現に、アメリカの資本主義が、共産主義者の理論的攻撃にもかかわらず、いささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して、自らを創造発展せしめたからである。
それと同様に、共産主義のイデオロギーも、いずれ全く変貌してしまうだろう。
いずれにせよ、ほんとうの敵は、ロシアでも共産主義でもない。
このことは、やがてロシア人も気付くだろう。
彼らの敵も、アメリカでもなく資本主義でもないのである。
世界の共通の敵は、戦争それ自体である。
平野氏:
天皇陛下は、どのように考えておかれるのですか。
幣原氏:
僕は、天皇陛下は実に偉い人だと、今もしみじみと思っている。
マッカーサーの草案をもって、天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと、内心不安でならなかった。
僕は、元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は、吉田君にも立ち会ってもらった。
しかし、心配は無用だった。
陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果、天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。
この英断で、閣議も納まった。
終戦の御前会議の時も、陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も、陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。
もしあのとき天皇が、権力に固執されたらどうなっていたか。
恐らく、今日天皇はなかったであろう。
日本人の常識として、天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。
当初の戦犯リストには、冒頭に天皇の名があったのである。
それを外してくれたのは、元帥であった。
だが、元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。
天皇は、己を捨てて国民を救おうとされたのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。
天皇は、誠に英明であった。
正直に言って、憲法は、天皇と元帥の聡明と勇断によって出来た、と言ってよい。
たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら、天皇制は存続しなかったろう。
危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
なお、念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も、僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
この証言は、国会図書館内にある資料からのもので、戦争放棄条項、憲法第九条が生まれたいきさつが、事細かに書かれています。
憲法のどこが押しつけか?
押しつけ論のウソは、いったい誰が、どんな目的で作り上げたのか。
以下の、幣原首相の言葉は、一言一句、彼のものか、そしてまた事実なのか、美化されたところはないのか、それはわたしにはわからん。
けども、日本自らが、世界平和への鍵をにぎり、そのドアを開けた国であったことがわかり、胸が熱うなった。
「世界は今、狂人を必要としている。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ」
なんちゅうすばらしい言葉やとかと思う。
これを今、チンケな政治家がいじろうとしてる。
日本が、原爆を落とされて重傷を負った日本が果たした歴史的使命を、浅はかな人間に奪われてたまるか!
死中に活!
肝っ玉が座った。
↓以下は、証言の中で特に感銘を受けた言葉を抜粋させてもろたもの。
『原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終った。
世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争。
平和の名をもってする、別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めからないもの。
原子爆弾が登場した以上、一刻も早く軍拡競争を止めなければならぬとわかっていても、それは不可能。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが、軍拡競争の果ての姿。
軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだ。
要するに、世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である』
↓以下、転載はじめ
この資料は、国会図書館内にある、憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)と題されたものを、
私(今川)が、川西市立図書館を通じて、国会図書館にコピーを依頼して手に入れ、
さらにそのコピーを、ワードに移し替えたものである。
原文は縦書きであるが、ホームページビルダーの性質上、横書きで書いている。
昭和三十九年二月
幣原先生から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー平野三郎氏 記―
憲法調査会事務局
は し が き
この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
昭和三十九年二月
憲法調査会事務局
第一部
私が、幣原先生から、憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。
同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。
場所は、世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、
当日は、私が、戦争放棄条項や天皇の地位について、日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて、幣原先生にお答え願ったのである。
その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、以下はそのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を、整理したものである。
なお、当日の幣原先生のお話の内容については、このメモにもあるように、口外しないようにいわれたのであるが、
昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみて、あえて公にすることにしたのである。
元衆議院議員・平野三郎氏:
かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから、是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。
あれは、現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ、独立の暁には、当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。
幣原喜重郎氏:
いや、そうではない。
あれは一時的なものではなく、長い間、僕が考えた末の、最終的な結論というようなものだ。
平野氏:
そうしますと、一体どういうことになるのですか。
軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。
幣原氏:
それは、死中に活だよ。
一口に言えばそういうことになる。
平野氏:
死中に活といいますと……。
幣原氏:
たしかに、今までの常識ではこれはおかしいことだ。
しかし、原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終った、と僕は思う。
何故なら、この兵器は、今後更に幾十倍、幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は、短時間のうちに、交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。
そうなれば、世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
平野氏:
しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。
幣原氏:
そうだ。
世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。
しかし、実際問題として、世界中が武器を持たないという真空状態を、考えることはできない。
それについては、僕の考えを少し話さなければならないが、僕は、世界は結局、一つにならなければならないと思う。
つまり、世界政府だ。
世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて、一つの政府の傘下に集まるというようなことは空想だろう。
だが、何らかの形における世界の連合方式というものが、絶対に必要になる。
何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少なくも、各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ、世界の平和は保たれないからである。
凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は、最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。
しかしその武力は、一個に統一されなければならない。
二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、
交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも、武力が威嚇手段として行使される。
したがって、勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には、無限の軍拡競争が展開され、遂に武力衝突を引き起こす。
すなわち、戦争をなくするための基本的条件は、武力の統一であって、
例えばある協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々が、進んで、且つ誠意をもって、それに参加している状態、
この条件の下で、各国の軍備が、国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、
それに反対して結束するかもしれない、如何なる武力の組み合わせよりも強力である、というような世界である。
そういう世界は、歴史上存在している。
ローマ帝国などがそうであったが、何より記録的な世界政府を作ったものは、日本である。
徳川家康が開いた、三百年の単一政府がそれである。
この例は、世界を維持する唯一の手段が、武力の統一であることを示している。
要するに、世界平和を可能にする姿は、何らかの国際機関が、やがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、
その同盟が、国際的に統一された武力を所有して、世界警察としての行為を行うほかはない。
このことは、理論的に昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。
しかし、原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す時が来た、と僕は信じた訳だ。
平野氏:
それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は、大国同志が国際的に話し合って決めることで、
日本のような敗戦国が、そんな偉そうなことを言ってみたところで、どうにもならぬのではないですか。
幣原氏:
そこだよ、君。
負けた国が負けたからそういうことを言う、と人は言うだろう。
君の言うとおり、正にそうだ。
しかし、負けた日本だからこそできることなのだ。
おそらく世界には、大戦争はもうあるまい。
もちろん、戦争の危機は、今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。
第二次世界大戦が、人類が全滅を避けて戦うことのできた、最後の機会になると僕は思う。
如何に各国が、その権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、
いかなる理想も人類の生存には優先しないことを、各国とも理解するからである。
したがって各国は、それぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題は、どのような方法と時間を通じて、世界がその至高の理想に到達するかということにある。
人類は、有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起こるか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、
唯一つ断言できることは、その成否は一に、軍縮にかかっているということだ。
もしも有効な軍縮協定ができなければ、戦争は必然に起こるだろう。
既に言った通り、軍拡競争というものは、際限のない悪循環を繰り返すからだ。
常に、相手より少しでも優越した状態に己を位置しない限り、安心できない。
この心理は果てしなく拡がって行き、何時かは破綻が起る。
すなわち、協定なき世界は、静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、
その静けさがどれだけ持ちこたえるかは、結局時間の問題に過ぎないという恐るべき不安状態の連続になるのである。
そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮を身をもって体験してきた。
世の中に、軍縮ほど難しいものはない。
交渉に当たるものに与えられる任務は、如何にして相手を欺瞞するかにある。
国家というものは、極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを、交渉者に要求する。
虚虚実実千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争である。
平和の名をもってする、別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めからないものなのだ。
原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。
むしろ軍縮交渉は、合法的スパイ活動の場面として、利用される程である。
不信と猜疑が無くならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、
原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。
そのような瀬戸際に追いつめれても、各国はなお、異口同音に言うだろう。
軍拡競争は、一刻も早く止めなければならぬ。
それは分っている。
分ってはいるが、どうしたらいいのだ。
自衛のためには力が必要だ。
相手がやることは自分もやらねばならぬ。
相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。
その結果がどうなるか、そんなことは分らない。
自分だけではない。
誰にも分らないことである。
とにかく自分は、自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。
責任は自分にはない。
どんなことが起ろうと、責任は凡て、相手方にあるのだ。
果てしない堂々巡りである。
誰にも手のつけられない、どうしようもないことである。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが、軍拡競争の果ての姿であろう。
要するに、軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。
そうだ。
誰かが自発的に、武器を捨てるとしたらー最初それは、脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。
次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。
自分は何を考えようとしているのだ。
相手はピストルをもっている。
その前にはだかの体をさらそうと言う。
なんという馬鹿げたことだ。
恐ろしいことだ。
自分はどうかしたのではないか。
もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂った、と言われるだろう。
まさに狂気の沙汰である。
しかし、そのひらめきは、僕の頭の中でとまらなかった。
どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。
恐らくあのとき、僕を決心させたものは、僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。
何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。
今だ。今こそ平和だ。
今こそ平和のために、起つ時ではないか。
そのために生きてきたのではなかったか。
そして僕は、平和の鍵を握っていたのだ。
何か僕は、天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば、全く狂気の沙汰である。
だが今では、正気の沙汰とは何か、ということである。
武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果、もう出ている。
要するに、世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である。
平野氏:
お話の通り、やがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。
しかし、その日が来るまではどうする訳ですか。
目下のところは差当りは問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら。
幣原氏:
その場合でもこの精神を貫くべきだ、と僕は信じている。
そうでなければ、今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。
しかも次の戦争は、今までとはわけが違う。
僕は、第九条を堅持することが、日本の安全のためにも必要だと思う。
もちろん、軍隊をもたないと言っても、警察は別である。
警察のない社会は考えられない。
とくに、世界の一員として、将来世界警察への分担負担は、当然負わなければならない。
しかし、強大な武力と対抗する陸海空軍というものは、有害無益だ。
僕は、我国の自衛は、徹頭徹尾、正義の力でなければならないと思う。
その正義とは、日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。
そうした与論が、国際的に形成されるように、必ずなるだろう。
何故なら、世界の秩序を維持する必要があるからである。
もしある国が、日本を侵略しようとする。
そのことが、世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。
その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然、日本の安全のために必要な努力をするだろう。
要するに、これからは、世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ、死中に活がある、という訳だ。
平野氏:
よく分りました。
そうしますと憲法は、先生の独自の御判断で出来たものですか。
一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果、ということになっています。
もっとも、草案は勧告という形で、日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ、天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから、事実上命令に外ならなかったと思いますが。
幣原氏:
そのことは、此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ、僕は風邪をひいて寝込んだ。
僕が決心をしたのは、その時である。
それに僕には、天皇制を維持するという、重大な使命があった。
元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは、出来るものではない。
まして、天皇の問題に至っては尚更である。
この二つに密接にからみ合っていた。
実に重大な段階であった。
幸いマッカーサーは、天皇制を維持する気持ちをもっていた。
本国からも、その線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。
ところが、アメリカにとって厄介な問題があった。
それは、豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関しては、ソ連に同調する気配を示したことである。
これらの国々は、日本を極度に恐れていた。
日本が再軍備したら大変である。
戦争中の日本軍の行動は、あまりにも彼らの心胆を寒からしめたから、無理もないことであった。
日本人は、天皇のためなら平気で死んでいく。
殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の、不可分とも言うべき関係であった。
これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の評決では、アメリカは孤立する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を、同時に提案することを、僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は、日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。
故に、戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は、廃止されたと同然である。
もともとアメリカ側である豪州、その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆に、ソ連を孤立させることができる。
この構想は、天皇制を存続すると共に、第九条を実現する、言わば一石二鳥の名案である。
もっとも、天皇制存即と言っても、シンボルということになった訳だが、僕はもともと、天皇はそうあるべきものと思っていた。
元来天皇は、権力の座になかったのであり、また、なかったからこそ続いていたのだ。
もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。
世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが、天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が、天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側から、こんなことを口にすることは出来なかった。
憲法は押しつけられた、という形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら、実際に出来ることではなかった。
そこで僕は、マッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、
これは実に重大なことであって、一歩誤れば、首相自らが、国体と祖国の命運を売り渡す、国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君にさえも、打ち明けることのできないことである。
幸い、僕の風邪は肺炎ということで、元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰い、それによって全快した。
そのお礼ということで、僕が元帥を訪問したのである。
それは、昭和二十一年の一月二四日である。
その日僕は、元帥と二人きりで、長い時間話し込んだ。
すべてはそこで決まった訳だ。
平野氏:
元帥は簡単に承知されたのですか。
幣原氏:
マッカーサーは、非常に困った立場にいたが、僕の案は、元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。
しかし、第九条の永久的な規定ということには、彼も驚いていたようであった。
僕としても、軍人である彼が、直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、
賢明な元帥は、最後には非常に理解して、感激した面持ちで、僕に握手した程であった。
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。
それについて僕は言った。
日米親善は、必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが、果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾は、やがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は、想像に絶する。
世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びれば、アメリカも亡びる。
問題は今や、アメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。
いかにして、世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら、誰が世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は、一つの世界に向って進む外はない。
来るべき戦争の終着駅は、破滅的悲劇でしかないからである。
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は、自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時に、そのような戦争放棄国の出現も、また空想に近いが、幸か不幸か、日本は今、その役割を果たしうる位置にある。
歴史の偶然は、日本に、世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。
貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも、承認される可能性がある。
歴史の偶然を、今こそ利用する時である。
そして、日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う、唯一つの道ではないか。
また、日本の戦争放棄が、共産主義者に有利な口実を与えるという危険は、実際ありうる。
しかし、より大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。
世界はここ当分、資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。
それを不動のものと考えることが、世界を混乱させるのである。
未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って、創造発展していく道だけである。
共産主義者は、今のところはまだ、マルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言は、やがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。
現に、アメリカの資本主義が、共産主義者の理論的攻撃にもかかわらず、いささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して、自らを創造発展せしめたからである。
それと同様に、共産主義のイデオロギーも、いずれ全く変貌してしまうだろう。
いずれにせよ、ほんとうの敵は、ロシアでも共産主義でもない。
このことは、やがてロシア人も気付くだろう。
彼らの敵も、アメリカでもなく資本主義でもないのである。
世界の共通の敵は、戦争それ自体である。
平野氏:
天皇陛下は、どのように考えておかれるのですか。
幣原氏:
僕は、天皇陛下は実に偉い人だと、今もしみじみと思っている。
マッカーサーの草案をもって、天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと、内心不安でならなかった。
僕は、元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は、吉田君にも立ち会ってもらった。
しかし、心配は無用だった。
陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果、天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。
この英断で、閣議も納まった。
終戦の御前会議の時も、陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も、陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。
もしあのとき天皇が、権力に固執されたらどうなっていたか。
恐らく、今日天皇はなかったであろう。
日本人の常識として、天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。
当初の戦犯リストには、冒頭に天皇の名があったのである。
それを外してくれたのは、元帥であった。
だが、元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。
天皇は、己を捨てて国民を救おうとされたのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。
天皇は、誠に英明であった。
正直に言って、憲法は、天皇と元帥の聡明と勇断によって出来た、と言ってよい。
たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら、天皇制は存続しなかったろう。
危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
なお、念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も、僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
わたしたち市井の市民が、狂人にならなければならない時がきているのではないでしょうか。
幣原の憲法案は1946年です。
マッカーサーの予備選は1951年です。
それでソ連邦を調べて見ました、1955年にマレンコフ首相が失脚していました。
理由は「核兵器の廃棄」と「平和共存」の主張でした。
ソ連邦にも狂人がいたようです。
46年から55年の10年、ここが核兵器廃棄の一度目の機会にする可能性があったようです。
「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016081290070313.html
「9条提案は幣原首相」 史料発見の東大名誉教授・堀尾輝久さんに聞く
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201608/CK2016081202000136.html
朝刊のトップ記事です、その日、わたしのブログでも記事にしました、夜までにかなりのアクセスがあったので、東京新聞の記事への反響だと思います。
アメリカが核兵器を持った瞬間に、東西冷戦となり、その後、ソ連邦も核を保有し、今は、核が国と国の国際社会をジャックしていいます。
核の時代の、人類の課題は、核を廃棄することです、東西冷戦の中で、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」の日本が、往来をし、核を破棄する。
この構想に、幣原の他にマッカーサーが仲間の可能性がある、予備選で「ソ連邦との和平」「交戦権の否認の追加」を、日本の学者の本で読んだことがあります。
その学者はアメリカに留学し、マッカーサーが研究対象で、記念館に通ったらしく、しかし、核の廃棄は研究対象ではなかったようです。
東西冷戦は、アメリカのひとり勝つで集結し、アメリカは世界帝國で、アメリカに宣戦布告する国などはありません、そのアメリカも含めて帝國を支援する日本とヨーロッパによって世界不戦共同体が形成されています。
このような構造の中、日本が、福島にフタをして、原発を破棄し、日米安保条約を破棄し、憲法9条を、高く掲げて、国際社会をひとり進むならば、核が廃棄できるのではないだろうか。
この理想をやるには、人類の平和の輿論に依拠し、「われら」が腹を括ることなので、そのように活き活きと生活をしたい。
マッカーサーについて、わたしなりにいろいろと調べてみましたが、彼の予備選での文言を見つけることができませんでした。
この方のブログに、少し興味深いことが書かれていましたので、ここに紹介させていただきます。
http://nihonnococoro.at.webry.info/201512/article_18.html
『マッカーサーが出馬した選挙戦において、国内ではマッカーサー批判は検閲対象だった』
核にまとわりつく人々は、自身の考えや欲が、どれほどの環境破壊や殺戮や汚染を生み出すのかに、想像が及びません。
というか、想像してはならないのかもしれません。
そのようなものを手にし、それを使えるような国家にしようとする改憲を、とにかく許してはならないと思っています。
ご期待に添えなくて申し訳ありません。
下の文言は平野のメモした重j原の言葉です。
(なお、念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も、僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。)
秘密にするのは、伝えるためと、秘密を共有している人のこれからの活動を前提にします。
わたしがマッカーサーについて知っているのは、小学生の時に死んだということと、日本の再武装に反対した、朝鮮戦争で解任された、大統領予備選に出馬したことです。それと部下がアイゼンアーワ―で、かれは核の商業利用の人だということです。
それでマッカーサーは「狂人」の仲間ではないだろうか、知らないことは大統領予備選での「信託」に「交戦権の否認」があるのではないだろうか、わたしは英語の会話も文章も読めません、できればマッカ―サーの予備選での文言を調べて頂きたいのですが、ご返事をお待ちします。
核と戦争。
ここからの脱却を実現しない限り、世界は破滅の道を歩み続けることになる、わたしも同感です。
今日、偶然に、わたしの手元に、日本の友人が送ってくれた、『日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか」が到着しました。
今夜から、さっそく読もうと思います。
今日たまたま、矢部宏治著の「日本はなぜ、戦争できる国になったのか」の内容について話をしていたのですが、
核システムの中心に居座っているアメリカ軍が、どういう意図で日本と条約を結んでいるかを知り、驚愕しています。
わたしたち市民の意思を寄せ集め、大きな声にして訴えていかなければ、本当にとんでもない仕組みに取り組まれてしまっている日本を、救うことはできないと、つくづく思い知らされたところです。
政教分離、身分制廃止して、69年です、人間で言えば2代です、まだまだ華族の子孫が政治家をやっております、核システムに希望を持って、未来を作りたいと思います。
でも、この記事のことは、とてもよく覚えています。
憲法の話が出てくるたびに、すぐに思い出すのもこの記事でした。
このことが、ガンガンと日本中に広がっていってほしいと思っています。
憲法9条は「愛のバクダン」!
いい言葉ですね~!
私は、昨日見つけて、報道ステーションの内容とともに、早速記事にしました。
憲法9条は、日本製「愛のバクダン」
http://blogs.yahoo.co.jp/shihihaida/14254240.html
生と死を考える、を読ませていただきました。
わたしもひとりの母として、いろいろと考えさせられました。
生には常に死がある。
そういうふうに思うのです。
別の言い方ですと、死に向かって生きている、ということですが、
だからこそ、今この時を大切にしたいと、もちろん完全にはできないにしろ、心がけていきたいと思っています。
コメントをありがとうございました。
幣原氏の熟慮、まさしく、人間性の原理に立脚されたものと感動でした。
天皇制については、当時はさもありなんとは思いますが、本来、これも解放されるべきでしょう。
皇族の人々の自由のためにも。
その証言ですが、この記事を書く際に読ませていただきました。
どのような物事も、鵜呑みにしないほうがよいと、自分自身戒めているつもりですが、
この証言とされている文章の中に、大変に共感できるものがたくさん含まれていて、ぜひ皆さんにも読んでいただき、それぞれに感じ取っていただけたらと思い、掲載させていただきました。
憲法9条が誰の発案か、いくつかの説があります。
幣原首相の言葉は本心ではなかったという証言もあり、
整合性等、幣原首相が発案したという説は、怪しいようです。
ここに憲法9条の幣原発案説を否定論が載ってます。
http://www.japantype.com/nishi/hp/Nishi-text/daik9jyo.htm
幣原喜重郎氏による証言はあまり鵜呑みにしないほうがよいのではないでしょうか。
出典など、詳しい情報が、山ほど出てくると思います。
いまだにその御立派な「平和憲法」とやらに追随する国家は皆無
本当にただの狂人に過ぎなかったわけですね
幣原さんについて、いろいろ知りたくなってきました。
ご教示いただけるとありがたいです。
文中のやり取りは戦後から6年後の事のようですが、文章自体は戦後19年経ってから憲法調査会なるものに提出されたもののようですが、
終戦直後の考えというよりも戦後の共産主義者、左翼たちのお題目もしくは反日勢力の言い分そのものですね。
戦前、戦中、戦後と日本はロシア(ソ連)のスパイだらけで、政治家、官僚、マスコミ、教育界、法曹界あらゆるところに共産主義者がおり、安保闘争や連合赤軍など共産主義者が堂々と革命を叫んでいた時代なので、
それら共産主義者によるプロパガンダの為の文章が公文書として出される事は普通にあり得ますね。
以下の文章なども…。
「日米親善は、必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが、果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾は、やがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は、想像に絶する。
世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びれば、アメリカも亡びる。
問題は今や、アメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。
いかにして、世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら、誰が世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は、一つの世界に向って進む外はない。」
■幣原氏の言として、天皇陛下ではなく「天皇」と呼び捨てにしていることが多い事からも、幣原氏自身が
共産主義者なのか、この人物が幣原氏本人ではなく、他の人物が騙ったものであるかわからない、
今この文章を出してくるという事は…
つまり、集団的自衛権の行使について、気に食わない、あるいは絶対に廃止に持っていきたい勢力
によるプロパガンダである可能性が高い。
幣原喜重郎という人物は隠れ共産主義者なのだろうか?
彼の提唱する世界政府という概念は正に共産主義者の提唱しているものです。
文章事態も稚拙というか、論理展開がおかしかったり、強引だったり、違和感があります。
第一、戦争放棄と武装しない(武装解除)という事は同義語ではありません。
スイスは戦争放棄し、永世中立国ですが、国民皆兵として徴経兵制度があり、女性までも軍事訓練していますし、一般家庭には銃器が備えられています。
戦争はしないが、降りかかる火の粉は払いますよ!という覚悟をもった国です。
そうでなければ先の大戦で戦禍に巻き込まれていたでしょう。
一国だけが武装解除したら、ハイエナの餌食になるだけです。世界を見れば軍隊を廃止したり武装解除した国で侵略されなかった国はありません。
日本も、戦後GHQによって軍隊、警察が武装解除させられて何が起きましたか?
在日朝鮮人による日本人狩り(朝鮮進駐軍でググって見て下さい)、強盗、強姦、不法占拠が日常的に行われGHQの発表だけで少なくとも4000人以上の日本人が虐殺されています。実際には犯人のわからない殺人を考慮すればこの数倍は殺されています。
当時の朝鮮人達は警察署を何度も襲撃し、占拠してもいます。それくらい警察が力が無かったのです。
暴れまくる朝鮮人を抑えるためと、朝鮮人による共産化を防ぐ為に、GHQが結果的に警察の武装化と自衛隊の設立を促さずにはいられなかったのです。
それでも尚、戦争放棄した日本は、北朝鮮に日本国民を拉致され、取り戻せない状態です。
漁民を韓国軍に殺され竹島を奪われても、謝罪も賠償も要求できず竹島も取り戻せない。
北方領土問題やシベリア抑留問題においても同じく、ロシアに謝罪も賠償も要求できないという体たらく。
上記韓国やロシアによる無法行為は、マスコミや国会で言及することすらタブーになっている不自然さ。
以下文章も破綻しています。
「もしある国が、日本を侵略しようとする。
そのことが、世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。
その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然、日本の安全のために必要な努力をするだろう。
要するに、これからは、世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ、死中に活がある、という訳だ。」
■日本が戦争できないからといって、同盟国であり、世界最強の超大国である米国は韓国・北朝鮮・ロシアを懲らしめてくれましたか?
もう一度繰り返しますが…
米国は、北朝鮮に拉致された日本人を取り戻してくれましたか?
韓国が竹島を不法占拠する際に4000名以上の日本人漁民を拿捕し、収容所に入れ、拷問し40名以上殺されましたが、米国は日本人を取り戻してくれましたか?韓国に制裁を加えてくれましたか?
ロシアによる日本人シベリア抑留により60万人の日本人が不法に強制労働させられ、数万人が死んだのを米国はせめて批難くらいはしてくれましたか?
何もしてくれてませんよ。
以下の文章もおかしい。
「それは、豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関しては、ソ連に同調する気配を示したことである。
これらの国々は、日本を極度に恐れていた。日本が再軍備したら大変である。
戦争中の日本軍の行動は、あまりにも彼らの心胆を寒からしめたから、無理もないことであった。
日本人は、天皇のためなら平気で死んでいく。
殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の、不可分とも言うべき関係であった。
これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の評決では、アメリカは孤立する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を、同時に提案することを、僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は、日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。」
■始めに豪州やニュージーランドは、「日本兵は天皇の為なら平気で死んでいく、天皇と戦争は不可分」といっておきながら最後には「豪州その他の国々は、日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。」といって「天皇の人間化と戦争放棄を、同時に提案することを、僕は考えた訳である。」
と強引にまとめています。論理が破綻してませんか?
それに元総理大臣が天皇陛下を「天皇」と言いますか?
つくづくおかしな文章です。
以下の文章もおかしいです。
「世界は今、狂人を必要としている。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ」
敗戦国の日本がこんな役割果たせますか?
この役割は「米、英、仏、露、中」の常任理事国が一斉に宣言してやらなければ無理なのは、中学生でもわかる道理です。
戦後69年、日本は戦争を放棄し、戦争ができない国として国連でも世界一の貢献をなしてきましたが、それで日本にならって戦争放棄、武装解除するといった国が一つでもありましたか?
それどころか、戦争放棄した日本は中国、韓国、北朝鮮、ロシア、米国にいいように食いものにされてきただけです。
インドネシアやタイの知人は、「日本が戦えないから、中国や韓国はアジアでやりたい放題している。」と言ってます。
私の友人の中国系日本人(帰化人)は「中国や韓国、北朝鮮は日本が殴ってこれないことを承知で、反日をやりたい放題してるだけ。だから早く憲法改正でもなんでもして強い日本になって!中国人も朝鮮人も話し合いが通じない民族よ!」
と言ってます。
世界中で性善説は日本くらいです。
憲法九条で喜んでるのは中国、韓国、北朝鮮の反日3兄弟と、戦後当時の連合国です。
結論として、私見ですが、このおかしな公文書?は、反日勢力のプロパガンダであると思われます。
著名人、有名人など影響力のある方々がむやみにこの文章を祀り上げている場合は、その人物は
日本が嫌いな日本人、共産主義者、左翼、世界主義者、大ショッカーの一員である可能性が高いと思います。
まあ、単なるリアリティに欠ける平和主義者の可能性もありますが…。
http://kenpouq.exblog.jp/20491858
今後も少しでも真実に近く詳しい情報を、よろしくお願いします。
日本人が拉致為れた訳で。
記事をもう少し、じっくりと、読み直していただきたいと思います。
これを素晴らしいと考える思考回路は、戦前の『お国のために死にましょう』と変わらないではないでしょうか?
当たり前だ。横っ面を引っぱたいても「戦争放棄」しか言わない国の言う事なんか誰が聞くか。
部活帰りの女の子が家に辿り着けない「平和国家」って何の冗談だ。「戦後の日本は平和」という建前は何百人もいる拉致被害者を見棄てる以前に「なかったこと」にしないと成り立たない穢く、冷たい嘘だ。「憲法のお陰で日本は平和」と主張されたいのなら「拉致被害者なんか見棄てて良い」と堂々と宣言して欲しい。その苦しみを「なかったこと」にしてコソコソと話を進めるな。
国を捨てる覚悟がいることだということですよね。
国や人、家族、子供たちを背負っていない人たちが、何を言っても一笑に付されてしまうでしょうが、彼は、国を背負う立場でそれを言った。
平和のために、国を捨てるとはどういうことか、それがどれほど重いことなのか、後世の私たちはまず考えていかなければいけないと思います。
大学で憲法を教えられるのですね!
すばらしいです!
こういう大切なことを、どんどんガンガン表に出してください!
よろしくお願いします!
いやもう、!マークをつい使いたくなってしまいます。
憲法を伝えてくださる方々を、わたしは心から応援したいと思っていますので。
専門であってもなくても、今の市民の中には、専門家よりも知識があり、情熱を持ち、さらに学び続けている人がたくさんいらっしゃいます。
今の政府の、とんでもない愚行を止めないと、未来の日本はたくさんの恥を抱えることになってしまいます。
どうか、ひとりでも多くの学生さんに、憲法というものを伝えてください。お願いします!
自民党の憲法改正草案は、9条による国防軍の創設や96条による改正ライン引下げもむごいものですが、さらに98~99条で、非常時には総理大臣に全権を集中でき、国民はそれに従うことまで決めています。
麻生さんのナチス発言どうこうなど些末な話で、これはまさにナチスがワィマール憲法下で全権委任法によって全権を握った手法そのものです。
天皇制への賛否はさておき、幣原さんの崇高な理念を、そして、日本国憲法制定後にアメリカから「憲法変えたい?」と聞かれても一蹴した当時の国民の願いを、踏みにじろうとする現政権と、それに単純に「中韓憎し」の感覚だけで何も考えず盲従することの愚かさに憂慮を禁じえません。
申し遅れましたが、私も(専門ではないのですが)大学で憲法を教える立場になったので、この話を多くの学生に伝えていきたいと思います。
「改憲をめざす第二次安倍政権下で、憲法審査会はすでに参院で二回、衆院では第一章からのレビューで五回開催され、四月は毎週開催になった。」ということで、今改憲に向かって憲法審査会が開催されています。
http://web-saiyuki.net/kenpou/
憲法審査会を傍聴している市民の「憲法審査会傍聴備忘録」というブログですが、憲法審査会の委員でさえこの体たらくです。
第147回国会 参議院憲法調査会 第7号
http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/keika_g/147_07g.html#wrap
これは2000年の5月2日に開会された、参議院憲法調査会(まだ審査会になる前)の議事録です。超長文で遅読のわたしは1時間くらいかかってしまいましたが、参考人にマッカーサー草案を起草したGHQ民政局のベアテ・シロタ・ゴードンさんとリチャード・A・プール氏が出席しています。
この中で笹野貞子議員が、「続きまして、憲法の学問的な理解度なんですが、シロタさんが憲法をつくったときに日本の社会は、大学あるいは高等学校を含めまして、このすばらしい憲法をみんな学習いたしました。ところが、昭和三十年ぐらいからこの憲法を徐々に教えなくなりました。特に女子大では憲法は全部選択になりました。そして、男性の大学でも法学部を除いて憲法は選択制に変わっていきました。現状ではほとんど女子大学では憲法を知らない学生がたくさん出てまいりました。こんな女性の権利を保障した憲法を今知らないで日本の国民は改正云々を言っているということは、大変に私は不思議だと思います。
この女性の大学で憲法を全部外し選択にしたという現状、また男性の大学でも憲法を学ぶ機会が非常に少なくなったという、こういう現状に対しまして、シロタさんの御見解を伺いたいと思います。
これは文部省の方針でやっていることですが、私は大変危険なことだというふうに思っております。」と語っています。
現在もいる自民党議員の名前もありますが、13年前にしっかり勉強したはずなのに、何も活かしきれていないことがよくわかります。世耕弘成議員は今では安倍内閣の官房副長官になっていて、電通を使ってステマを仕掛けてるチーム世耕として有名ですね。
あとは野党議員がどれくらい憲法を知ってるかが問題ですが、護憲の社民党は弱小政党になってしまい審査会に委員を送れないから、しっかり理解してるのは共産党議員くらいでしょう。生活の党も96条改憲にははっきり反対してるから救われますが。
憲法教育をしてこなかったのは、怨念のように改憲を望んでる自民党が、長年政権を握ってきたから当然ですよね。
不勉強な国会議員もその術中にしっかり嵌ってしまってますね。
長くなってすみませんでした。
けれどもまあ、憲法そのものにも無頓着だったのですから、当たり前といえば当たり前なのですけれども……。
こんなすばらしい証言を、ここで紹介してはい終わり、ということにしたくありません。
せめて、国会議員全員に、これを配って読んでもらいたいです。
そういうことはできるのでしょうか。
まずそのことに、今さらながら、そして我ながら、めっちゃびっくりしました。
いったいなんやこれは?と。
そういう人はきっと、わたしだけやない、もしかしたらけっこうぎょうさんいはるんやないかと思い、大いに焦って書きました。
けど、そうやね。
ちょっと、無理が続いてるのかもしれん。
自重せなあかんとも思てます。ありがとう。
わたしは憲法の本を読むまで、幣原喜重郎という総理大臣が日本にいたことを知りませんでした。姉に聞いても「知らない」って言ったから、わたしだけが無知じゃなかったとホッとしたことを覚えています。
サンフランシスコ講和条約と同じ日に安保条約を結ばされた吉田茂は国葬扱いになったのに、戦後日本の基礎を創った幣原喜重郎のことは随分軽い扱いなんだなって思います。
日本国憲法施行60年だった6年前、国立公文書館で日本国憲法と大日本帝国憲法の原本を展示していて観に行ったことがありますが、昨年は65周年だったのに記念行事は行われませんでした。
国立公文書館には、幣原喜重郎と石橋湛山と吉田茂の肉声を聞けるコーナーがありましたよ。
今読んでる古関彰一氏の「憲法九条はなぜ制定されたか」では、9条の発案はマッカーサー説・幣原喜重郎説・白鳥敏夫が提案して吉田茂が受け入れ進言したという説があると書いてありましたが、誰が発想したかも大切ですが、それをきちんと活かして、わたしたち国民の生活に根差すことが大切だと思っています。
わたしたちに理性と覚悟があったら、北朝鮮や中国の脅威論に怯えることもないと思っています。
「死中に活」ですね!良い言葉を教えていただき、ありがとうございました。
ありがとぉ、
頑張って欲しいけど、これ以上、体 悪ならんよぉに気をつけてください。