ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「みなさんの考えとはたらきで、国が治まってゆくのです。これが民主主義というものです」

2013年01月15日 | 日本とわたし
死の直前まで、国民が本当の主権者になるためにはどないしたらええかを考え、絶え間なく襲いかかる激痛に耐え、他者への共感と行動力を失わんかった人、日隅一雄さん。
わたしは、生前の彼の声を、いろんな媒体を通して聞いた。
最後の方では、とうとう声が弱ってしもたりしてたけど、それでも彼の瞳には、強い意志が宿ってた。

生きててほしかった。
もっともっと、元気で長生きしてほしかった。

去年の夏に、図書新聞に掲載された、日隅氏をよく知る、梓澤和幸さんのお話。
これを読むとさらに、本当に惜しい人を失ったことを痛感させられるとともに、われわれが彼の意志を継がなあかんと、強く考えさせられる。

↓以下、転載はじめ

http://www.azusawa.jp/topics/topics-1028-hizumi.html
「ヤメ蚊」 よ永遠に──人間の可能性を信じ、
真の国民主権を求めた弁護士・ジャーナリスト日隅一雄

NPJ代表 梓澤和幸

図書新聞は、日本読書新聞とならんで、硬質の書評紙として知られています。
読書案内というにとどまらず、思想、哲学に関心のある読者に歓迎される、週刊新聞でもあります。
日隅一雄君のことは重視してくださり、生前インタビューも紹介してくださいました。
 
このたび、梓澤インタビューにより、 『国民が本当の主権者になるための5つの方法』 という、現代書館の本を紹介してくださいました。
梓澤和幸HPとNPJに、掲載させていただきます。
梓澤和幸

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去る6月12日に亡くなった、弁護士でジャーナリスト、日隅一雄さんの遺著 『国民が本当の主権者になるための5つの方法』 (現代書館)が刊行された。
3・11以後、政府・東電の数々の情報隠しを追及し、民主主義のための情報公開の促進と、真の国民主権の実現のために命を燃やした日隅氏の、 私たちへのラスト・メッセージである。
 
本書をめぐって、日隅氏とともに活動した弁護士で、インターネット市民メディア 「News for People in Japan」(NPJ) 代表の、梓澤和幸氏に話をうかがった。
(7月27日、東京・国分寺にて。聞き手・米田綱路 〔図書新聞編集〕)


◎自分たちのメディアを創る

―― 日隅さんと知り合われたきっかけは?

梓澤 日隅君は、産経新聞記者をつとめたあと、1998年に弁護士になり、 2001年に日本弁護士連合会の、人権と報道に関する委員会の委員になりました。
私も委員でしたから、そこで知り合いました。
同じ年、ともに報道被害救済弁護士ネットワーク(LAMVIC)を設立し、日隅君は中心メンバーとして活動しました。

―― 2008年にNPJが設立されたとき、梓澤さんが代表、日隅さんが編集長になられました。

梓澤 NPJを設立したのは、2004年に起きた、イラクでの日本人3人の人質事件の経験が大きかったんです。
あの事件をよく考えてみると、大事なのは、イラクで戦っている人たちが、日本人のことを、友人と思っていることだった。
いわば、日本の友人へのメッセージとして、人質を釈放し、3人が帰ってきたわけすね。
実際、人質だった1人からは、アメリカ軍がファルージャという町を取り囲んで、曳光弾を打ち込んだ話を聞きました。
アメリカ軍は、大量虐殺を行ったんですね。
3人が帰って来たとき、そのことに耳を傾けるべきであるのに、首相官邸の差配で一挙に世論が覆され、逆に、自己責任論が一夜にして沸き起こった。
マスメディアは3人に対して、とにかく記者会見をやれ、と要求した。
その記者会見は、責任追及の場みたいなものとして想定されたんです。
記者からは、人質だった女性を出すのか出さないのかはっきりしろ、と言われました。
私は、胸ぐらを掴まれたような感じがしました。
 
そこで私たちは、医師にお願いして、高遠さんはいま出られないと状況を説明して、記者たちを納得させ、羽田空港近くで会議場を借りて、記者会見を行った。
200人ぐらいの記者が集まりました。
 
その時、日本のマスメディアでは、真実というのは完全にひっくり返されるんだな、このままではだめだ、と思いました。
そして、自分たちが、自分のメディアを持たないとだめだと、彼らの救出運動の中心にいた弁護士たちが考えたんですね。
その中に私もいたし、日隅君もいた。
いま、NPJ事務局長の田場暁生君も、井堀哲君もいました。
 
自分たちのメディアを作るためにどうしたらいいのか、手がかりを得ようと、私たちは韓国へ行き、 「オーマイニュース」 や、その他の市民メディアを視察してきました。
そうして帰国後、2008年にNPJを設立しました。

―― 既存のマスメディアとは違う、インディペンデントな市民メディアを作られたわけですね。
日隅さんは早くから、マスメディアに対する問題意識を持っていたのでしょうか。

梓澤 そうですね。
彼がブログ 「情報流通促進計画」(ヤメ蚊ブログ)を立ち上げたのが、2005年3月です。
ネットで活発に発信する一方で、表現の自由をめざす人たちのネットワーク 「ComRights (コムライツ)」などでも活躍しました。
『マスコミはなぜ 「マスゴミ」 と呼ばれるようになったか』 (現代人文社刊)は2008年です。
 
2005年にはもう一つ、忘れられない事件がありました。
2005年に、NHK番組改編事件について、 自民党政治家による干渉があったと朝日新聞が報道し、
自民党やNHKの対応、朝日新聞のその後の報道姿勢などに、危機感を抱いた私たち弁護士が、 「報道・表現の危機を考える弁護士の会(LLFP)」 を創りました。
私も日隅くんも、この事件を取材した本田雅和・朝日新聞記者をよく知っていたので、朝日側の対応も変だ、おかしいと感じていた。
LLFPを創った動機には、そんな危機感がありました。


◎情報隠しを追及し続けたエネルギーの源とは

―― 日隅さんは、NHK番組改変事件や、沖縄密約情報公開事件などの訴訟で、代理人を務めましたが、
表現の自由と情報公開や、報道問題に取り組んだモチーフには、彼自身の記者経験があったのでしょうか。

梓澤 それはあったと思います。
ただ、日隅君は、自分のことを語らない。
ある弁護士に言わせれば、弁護士には珍しく、謙虚にして語らない人だ、と。
 
末期がんで、余命半年と宣告された後、亡くなるまでの約1年間に、もうマンションから飛び降りたいくらいだ、とブログに書いていたくらい疼痛が厳しい中で、 原稿を書き、死の直前に、何冊か本を仕上げていますね。
そのエネルギーや情熱の源はなんだったのか。
何が、彼のような人間を可能にしたのか
それは、人間論として、非常に大事なテーマだと私は思います。
その謎の根源を、ぜひ突き止めたいです。
 
何が、ある一人の人間をして、ここまで痛みや苦しみを乗り越える力を与えたのか、ということについては、
あまり簡単に答えを出さずに、 彼の生前のことばを集めながら、そして、幼いときの彼のことを聞きながら、考えてみたいですね。
なぜかというと、それは、私たちにとっても同じことであって、 自分の情熱が弱くなりそうなとき、私たちは何に力を得て、日隅君のような人に近づけるのか、というテーマがあるからです。

―― 「日隅君を送る」 というエッセイ(NPJ掲載)の中で梓澤さんは、 「日隅一雄の人生」 というような文章を書くために取材をしてみたい、と書かれています。
これはあくまで私の推測ですが、日隅さんが言論表現の自由を追求したモチーフの一つに、 1987年5月3日に起きた、朝日新聞阪神支局襲撃事件の経験があったのではないか。
事件前後に、日隅さんは、産経新聞の新人記者として、阪神支局に赴任した。
事件は、とても身近だったはずです。
亡くなる前、日隅さんに、そのことを訊いてみたのですが、明確な答えはありませんでした。
ですが私は、何かの因縁を感じています。

梓澤 確かに、衝撃的な事件でした。
小尻記者が搬送されるとき、〝くそ〟と自らを励ますようにうめいた、という記事を思い出します。
日隅さんにも、大きなインパクトを残したとは思いますが、そのことを聞いたことはありません。
一つ、日隅さんに驚かされたことがあって、自分が闘病中にもかかわらず、他の弁護士が心臓に問題を抱えているのを気遣って、 ○○さん大丈夫ですか、と言ったんです。
私は 「えっ」 と絶句しましたよ。
そして病身を抱えながら、福島のことを思い続けた。
福島原発事故の警戒区域の中で、いま、牧場主が、300頭の牛を飼っていて、全国からエサ代を集めて生かしているんです。
ところが、浪江町が、記者の取材目的の立ち入りに条件をつけた。
日隅君は、すぐに現地へ飛んで行って、記者会見までやっている。
亡くなる20日ぐらい前のことです。

 
そのぐらい他者を思う彼の思いや共感は、すごいですね。
痛みで、もう元気が無くなっても、それでも他者を思い続ける
その源が何なのかは、本当に不思議なところです。

―― 他者への共感や行動力は、本来、ジャーナリストの条件だったのはないでしょうか。
あえてジャーナリズムといわなくても、 社会と公共性を支える根底に必要なもの。
ところが、今日のマスメディアの現状を見ると、必須のはずの条件が、あまりにも欠如している。
だから日隅さんは、いのちを削って、実践で、その条件を示して見せた。
ここに一つ、彼のラスト・メッセージがあるように思います。

梓澤 東電の記者会見で、海に汚染水を放出する発表をした場面がありました。
責任者は誰だと追及しても、東電は言い逃れをする。
日隅君は追及し続け、ついに午前一時になった。
でも、記者は誰も立ち上がらず、パソコンの画面に目を落としているだけだった。

あれは象徴的な場面です。
あの時、日隅君はすごく傷ついたと思うし、まだ告知前だったけれども、病が進んだかもしれない。
いま思い出しても、あれはむごい場面だ。

―― 以前にインタビューした時も、日隅さんは 「この場面で、マスメディアが何も言わなかったというのは、非常にショックで、辛かった」 と言っていました。

梓澤 日隅君は、この本の中で、職業としてしかやってない新聞記者たちに対して、失望した瞬間でした、と書いています。
午前一時までに、原稿を書いて送らなくちゃいけないからと、ここで原稿を送るのと、真実を追及するのとは、どっちが優先的な価値かと。
これは、ものすごい告発ですよ。
 
上の階に、東電の幹部がいるわけだから、みんなが立ち上がって、早く責任者を出せ、出てこい、と追及しなければいけない。
だって、メガフロートとタンクを持ってくれば、汚染水の放出は止められたかもしれない。
なぜ、保安院も東電も、汚染水を垂れ流したのかも分からない。
世界中の海を汚しても、このまま通り過ぎることができると考えたのか。
だけども、記者は追及しきれなかった。
そして、汚染水を放出するという、取り返しのつかないことをしてしまった。
 
日隅君に訊いたら、メガフロートを次々と積み上げていくのは金がかかるから、汚染水を海に捨てたのではないか、と言っていました。
確かに金はかかるでしょう。
でも、金とひきかえに、漁業者の生活を破壊し、人々の健康をおかす、取り返しのつかない環境汚染を引き起こしてしまったんです。
ここで放出を止められなかったことに、忸怩たるものがあると、日隅君は書いています。


◎俺にしかやれない仕事がある

―― 『国民が本当の主権者になるための5つの方法』 には、日隅さんが亡くなる前に書いた 「大きな木の上の大きな目」 (日隅一雄・文/ふなびきかずこ・絵)が収められています。
これを読んだとき、まるで宮澤賢治の童話のようだ、と思いました。
ここには、ジャーナリズムの使命である、権力を監視し、市民の安全と平和を守る、というテーマがあるように思います。
そして、弁護士法第一条にもうたわれた、基本的人権の擁護と、社会正義の追求という使命を、 日隅さんが、どのように考えていたのかを窺わせるテーマがあるように思います。

梓澤 日隅君は、金銭に、不思議なぐらい頓着しない人でした。
人権問題に関わると同時に、企業の利益が関わる事件を、 私と日隅君が駆けつけて支援し、弁護団を組んで取り組んだことがありましたけれども、彼はついに、報酬を請求しなかった。
NPJに複数回、何十万円単位で、カンパをしたりもしました。
 
たしかに、金銭を惜しまない人はいるけれども、それは、一生懸命努力してそうするわけです。
でも、彼の場合、そういう抵抗感はない。
欲望が、スパッと離れていた。
 
名誉の点に対する欲望も、本当になかった。
ずっと事務局的な仕事をして、いわゆる、黒子であることが喜びだった。
 
偲ぶ会の時、私は弔辞で、少し婉曲して言ったのですが、専門家集団というのは、人間と人間の障壁がある。
法律家集団やジャーナリストは、エリート意識が強く、互いに競争意識があって、隣に並んでいる人間と、無条件に結びつかないきらいがある。
 
ところが、日隅君のこの半年、一年の行動を見ると、もうそういうこと言っていられないと、とにかく誰か、窮状にたつ人のところへ行って何かをしようと、 人間を結びつける役割をはたした。
それはすごいことで、彼が遺した大きな財産ですね。

―― ジャーナリストと弁護士は、職業的に違いますけれども、日隅さんはその両方であるという、稀有な人でした。
彼のなかで、弁護士とジャーナリストはどのようにつながり、重なり合っていたのかは、興味深い点です。

梓澤 それは、非常に大事なところですね。
ジャーナリストも弁護士も、職業的に、反対尋問的能力が非常に鍛えられます。
あいまいなことを言うと、ジャーナリストはすぐに切り返して、事実を確かめる。
弁護士もまた同じで、ジャーナリストの質問の仕方よりも、 もっとしつこく、徹底的に反対尋問をする。
 
だから、東京電力の記者会見では、おかしいと気づいた時、ジャーナリストと弁護士の反対尋問的能力が、両方発揮されたんだと思いますね。
マスメディアの職業ジャーナリストには、時間の制限があるけれども、日隅君にはそういうものはないし、気がついてしまった以上は、 徹底的にやらざるをえなかった。
 
私も何回か、記者会見場で質問しましたけれども、200人ぐらいの記者がいて、もう聞きたくない、次の話題というときに、 いや違う、と質問するのはすごく嫌なんですよ。
無言の圧力があるわけです。
事実を確かめてはいませんが、あるとき、罵声が飛んだともいわれています。
 
毎日来ている記者は、明日も来るから、そうそうガンガン追及できない。
それでも日隅君は立ち上がって、明らかにおかしいということを、追及し続けた。
 
きっと彼は、東京電力の記者会見で、俺がやらなきゃいけない、俺にしかやれない仕事がここにある、と自負したんでしょう。
だから、あれだけのことを成し遂げたんじゃないか。

―― 先ほどの、日隅さんのモチーフと関わりますが、梓澤さんはNPJのインタビューで、病苦をおして会見場に通った日隅さんに、なぜそこまでするのか、 と訊かれています。

梓澤 先にも言ったように、私が知りたいのは、彼のモチベーションは何によって作られているのか、ということでした。
これは、単なる友人関係では聞けないので、NPJという公を背負いながら、彼に迫ったわけです。
なかなかこの質問に答えてくれなかったんですが、彼はこう言いました。
 
「私一人でどうにかできたわけではないのですが、原発への関心が弱く、そのため福島の人たちを、こんな目に遭わせてしまった」
「福島の人たちの苦しみに比べれば、私のがんの痛みや苦しみなど、小さいものだと思っていますから……」

 
これを聞いた時は、深い衝撃を受けました。
なかなか言わなかったけど、食い下がって、ようやく引き出すことができた。
私たちの他には、誰も聞いていない言葉です。


◎国民主権を肉声化したラスト・メッセージ

―― 日隅さんは、私たちが真の主権者になるための五つの方法、を示して逝かれました。
梓澤さんも、この本のまえがきで、「主人公となる幸せ」 のために、最後の一晩まで生きた、と書かれています。

梓澤 日隅君のすごいところは、原発とメディアという論点を越えて、国民主権論へと、大きく一歩を進めたことです。
メディア問題だけに論点を絞ることはよくない、と彼は言っていた。
したがって、この本でも、五つの方法のなかにメディア論も出ているけれども、 選挙と行政の監視、教育、情報公開などのシステム論について、彼は書いています。
 
システム論で思い出したんですが、『検証 福島原発事故・記者会見――東電・政府は何を隠したのか』 (木野龍逸氏との共著、岩波書店、 2012年)を読んで、気づいたことがあります。
これも、日隅君の思想というか、ものの発想でおもしろいところなんです。
 
ノーマ・フィールドの 『小林多喜二――21世紀にどう読むか』(岩波書店、2009年)の中に、たとえば 『蟹工船』 の中で、小林多喜二は、 すごい拷問みたいなことをする親方にも役割を与えている、という叙述があるんです。
ただ糾弾するだけではなくて、役割を与えていると。
 
日隅君もそうで、原子力保安院の役人の中に、最初にメルトダウンを認めた人間が2人いて、そのあとに、西山英彦審議官が出てきたというふうに、 保安院の人間のことを、ちゃんと分析しているんです。
さらに注目すべきは、東電のスポークスマンである松本純一原子力・立地本部長代理、 いってみればカタキ役なんだけど、その人物についても一行書いている。
責任をもって情報を発言し続けた、というくだりが、記者会見の中にあるんですよ。
 
日隅君にあったのは、人間の可能性を信ずる性善説です。
その性善説に立ちながら、人間がヒューマンでなくなるのは、 そういうシステムがあるからだと考えた。
だからこそ、人間をひどくさせない、 一人の人間が非人間的になっても、社会が悪くならないシステムを考えておかなければならないと、五つの方法を問題提起したわけですね。
 
特に、その五つの中で感心するのは、選挙についての記述です。

―― 亡くなる2週間ほど前、日隅さん自身が、次の衆議院議員選挙に出馬したいと言ったと、海渡雄一弁護士が、本書のあとがきで書かれています。
市民が真の主権者となるために、選挙制度の改革や選挙運動の制限撤廃を、政治で行おうと、日隅さんは考えたようですね。

梓澤 戸別訪問の禁止が、どんなに選挙を歪めているか。
インターネット規制はどうだろうか。
立候補に必要な300万円の供託金制度を取っ払えばどうか。
すなわち、これらの制限は、新しい勢力がこの世の中に出て来ようとするときに、 それを阻むシステムになっているんです。
新しい勢力、若い人たちの台頭を確保できれば、すいぶん違ってくるということを、日隅君は言っていた。
 
そして、私が強調したいのは、日隅君が最後に、 『あたらしい憲法のはなし』 を、くりかえし引いていたことです。
戦後直後、中学一年生用の教科書に使われたものですが、これは、彼の肉声といってもいい言葉ですね。
 
この言葉がなぜ出てきたかというと、第二次世界大戦中に、アジアでたくさんの人たちが死に、日本でも、何百万人という人たちが死んだ。
そういう歴史がすぐ直前にあって、この言葉が可能になったと思うんです。
非常に格調が高く、浸透する言葉です。
自分のがんの痛みと、福島の原発震災のことがあって、戦後直後の 『あたらしい憲法のはなし』 の言葉が、彼の言葉になった。
肉声になったんです。
 
「いまのうちに、よく勉強して、国を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。
もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、国のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。
みなさんの考えとはたらきで、国が治まってゆくのです。
みんながなかよく、じぶんで、じぶんの国のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。
これが、民主主義というものです」

 
読んでいると、涙が出てきますね。
日隅君が、肉声で言っているような気がして。

―― 梓澤さんが 「主人公となる幸せ」 と言われるのも、このことですね。

梓澤 ええ。現在の日本では、もう国内難民は起きているわけだし、この次、また原発事故が起きる可能性を否定できない。
そうなると、日本からの難民もありえます。
そういう惨憺たる国で、誰か偉いやつが、上から俺について来い、と言う。
あるいは、俺は逃げるからな、と言う。
そういう国ではなくて、みんなが苦しみもいいことも、分け合っていくような国にしていく。
そこに希望があるんじゃないか。
本気で、自分の希望というものを思想にしていなかったら、『あたらしい憲法のはなし』 の言葉を、肉声になどできないですよ。
 
日隅君は、それを肉声化しえたんじゃないかな。
そのことによって、彼は最後の一年間、福島の苦しみに自分の苦しみをなぞらえながら、 あれほどの活動をし、志を示すことができたのではないでしょうか。
 
↑以上、転載おわり

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2 コメント

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真のジャーナリスト! (じゅんこ)
2013-01-16 22:22:44
 まうみさん、こんばんは。

日隅一雄さんが亡くなって、随分心細い思いをしています。弁護士とジャーナリスト、強い信念を持ってたから、二つの職業を使いこなせたんですよね。

あの後、「審議会革命」「主権者」は誰か」「マスコミはなぜマスゴミと呼ばれるのか」「国民が本当の主権者になるための5つの方法」「福島原発事故・記者会見」日隅さんの著書を買いました。「あたらしい憲法のはなし」も再度読み返し、日隅さんが伝えたかったこと、日本国憲法を変えさせないことを肝に銘じました。
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じゅんこさんへ (まうみ)
2013-01-17 14:33:56
日隅さんはきっと、あの壮絶な生き様を見せることによって、次に続く人を作っていたのだと思います。
彼の死を、悼むどころか、ホッとしている人間どもに制裁を加えるために。

彼の本をぜひとも手にいれなければ……。

やりたいことがいっぱい過ぎてかないません……。
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