ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

オバマ大統領の『広島スピーチ』への怒りと失望について考えた1週間

2016年06月02日 | 世界とわたし
昨日の朝、このビデオを見つけました。
それでようやく、昨日までの1週間、もやもやもやもやし続けていたのはなぜかということに、気づくことができました。

そのビデオとは、ノルマンディ上陸勝利記念集会での、各国の首長たちの様子を撮ったものです。



式典では、巨大なスクリーンに、第二次世界大戦の様々なシーンが映し出されていました。
そして、原爆が投下され、キノコ雲が立ち上がったそのシーンを観たオバマ氏が、無表情で拍手をしていたのです。
他にも拍手をしている人たちがいましたが、ドイツのメルケル首相は微動だにせず、ロシアのプーチン大統領は胸で十字を切りました。

もし仮にあの時、アメリカと抜きつ抜かれつの研究開発競争をしていたロシア(ソ連)チームが勝っていたら、
プーチン氏が拍手をし、オバマ氏は十字を切っていたかもしれません。
原爆を落とした国の首長は、あの悪魔的なキノコ雲の下に、どれほどの地獄が存在していたのか、想像をしたり、同情をしたりすることが許されていないのかもしれません。

ここアメリカでの、原爆投下から以降、多分今から20年前ぐらいまでの、原爆を正当化する教育は凄まじいものでした。
でも今は、教えている生徒たちの口から、原爆についての正しい認識が語られるようになっています。
だからこれはあくまで想像ですが、夫の世代ぐらいまでの大人はまだ、原爆投下は正しかった、という認識を持っている人が多いのではないかと思います。
だからオバマ氏も、そのような教育を受けて大人になり、政治の世界に入り、大統領まで登りつめました。
大統領という立場だからこそ、本心を伴わない言動をしなければならないことも多いのかもしれません。
特に、軍部の人間が周りにいる際には、その言動には注意しなければならないのかもしれません。
でも、でも、いくら良いように考えても、あのキノコ雲を観て拍手をするという彼の行動に、わたしはとても失望しました。

オバマ氏が、現職の米国大統領としては初めて、広島を訪問する。
そのニュースを聞いた時から、そのことを政治利用し、選挙を有利に運ばせようと躍起になる、政府のことを考えていました。
そのことをにぎやかに報じて、本当に報じなければならないことを報じなくなった己の恥を誤魔化せるとほくそ笑む、マスコミのことを考えていました。

せめて、彼のスピーチの中に救いがあったら…。
そう願いながら、彼のスピーチを聞きました。


71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。
閃光と炎の壁が、この街を破壊し、人類が、自らを破滅に導く手段を手にしたことが、はっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に、恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。

彼らの魂が、私たちに語りかけています。
彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして、自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するよう求めています。

広島だけが、際立って、戦争を象徴するものではありません。
遺物を見れば、暴力的な衝突は、人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。
フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった、私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

どの大陸でも、文明の歴史は、戦争で満ちています。
戦争は、食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意で、やむなく起きてしまいます。

多くの帝国が、勃興と衰退を繰り返しました。
多くの人間が、隷属と解放を繰り返しました。
そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、
そして、時が経つに連れて、自分たちの名前が忘れ去られたことに、苦しめられました。

広島と長崎で、残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。
そうした国の文明は、世界に、大都市と優れた芸術をもたらしました。
そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する、先進的な思想を持っていました。
にもかかわらず、支配欲、あるいは征服欲といった、衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。
そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のない、お決まりのパターンを生んでしまったのです。

数年の間に、およそ6000万人もの人たちが、亡くなりました。
男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちが、です。
射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。
世界中に、この戦争を記録する場所が、数多くあります。
それは、勇気や、勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような、卑劣な行為の名残でもある、墓地や空っぽの収容所といったものです。

しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは、人間の中核に矛盾があることを、非常にくっきりとした形で思い起こすのです。

思考、想像力、言語、道具を作る能力、
そして、人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力、
そのような、際立つ能力を持つ私たち人類に、類を見ない破滅をもたらすような能力を与えられることが、
どれだけの悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。

物質的な進歩、あるいは、社会的な革新によって、こうした真実がどれだけ見えなくなってしまうのか。

より高い信念という名の下、どれだけ安易に、暴力を正当化してしまうようになるのか。

どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。
にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証である、と主張する信者たちから免れられないのです。

国家は、犠牲と協力で、人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。
しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが、頻繁に利用されたのです。

科学によって、私たちは、海を越えて交信したり、雲の上を飛行したりできるようになり、
あるいは、病気を治したり、宇宙を理解したりすることができるようになりました。
しかし一方で、そうした発見は、より効率的な殺人マシンへと、変貌しうるのです。

現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。
広島が、こうした現実を教えてくれます。

技術の進歩が、人間社会に、同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に、破滅をもたらすこともあります。
原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。

だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。

私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして、爆弾が投下された瞬間を想像します。

私たちは、目の当たりにしたものに混乱した、子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。

私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。

私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が、進展していく中で殺された、すべての罪なき人々を追悼します。

こうした苦しみを、言葉に表すことはできません。
しかし、私たちは、歴史を直視するために、共同責任を負います。
そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにはどうすればいいのかを、自らに問わなければなりません。

いつの日か、証言する被爆者の声が、私たちのもとに届かなくなるでしょう。
しかし、1945年8月6日の朝の記憶を、決して薄れさせてはなりません。
その記憶があれば、私たちは、現状肯定と戦えるのです。
その記憶があれば、私たちの、道徳的な想像力をかき立てるのです。
その記憶があれば、変化できるのです。

あの運命の日以来、私たちは、自らに希望をもたらす選択をしてきました。

アメリカと日本は、同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。
それは、私たち人間が、戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。

ヨーロッパ各国は、戦場を、交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える、連合を構築しました。
抑圧された人々と国々は、解放を勝ち取りました。
国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために、機能する組織と条約をつくりました。

それでもなお、世界中で目にする、あらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、
私たちのやることに、終わりがないことを示しています。

私たちは、人間が、邪悪な行いをする能力を、根絶できないかもしれません。
だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。
しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って、恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

私が生きている間に、この目的は達成できないかもしれません。
しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。
このような破壊をもたらす核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が、狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。
世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。
私たちの心を変えなくてはなりません。
戦争に対する考え方を、変える必要があります。
紛争を、外交的手段で解決することが必要です。
紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。
暴力的な競争をするべきではありません。
私たちは、築きあげていかなければなりません。
破壊をしてはならないのです。
なによりも、私たちは、互いのつながりを、再び認識する必要があります。
同じ人類の一員としての繋がりを、再び確認する必要があります。
つながりこそが、人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。
選択をすることができます。
子供達に対して、別の道もあるのだと、語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を、作っていくことができます。
物語は、被爆者の方たちが、語ってくださっています。
原爆を落としたパイロットに、会った女性がいました。
殺されたそのアメリカ人の家族に、会った人たちもいました。
アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。
すべての人類は平等である。
そして、生まれもった権利がある。
生命の自由、幸福を希求する権利です。
しかし、それを現実のものとするのは、アメリカ国内であっても、アメリカ人であっても、決して簡単ではありません。

しかし、その物語は真実である、ということが非常に重要です。
努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。
すべての人がやっていくべきことです。
すべての人命は、かけがえのないものです。
私たちは、「一つの家族の一部である」という考え方です。
これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。
そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。
たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、
そういった素晴らしい瞬間が、71年前の、この場所にもあったのだということを、考えることができます。

亡くなった方々は、私たちと全く変わらない人たちです。
多くの人々は、そういったことを理解できると思います。
もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。
科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしい、と考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が、広島から得られるでしょう。

世界は、この広島によって、一変しました。
しかし今日、広島の子供達は、平和な日々を生きています。
なんと貴重なことでしょうか。
この生活は、守る価値があります。
それを、全ての子供達に、広げていく必要があります。
この未来こそ、私たちが選択する未来です。
未来において、広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として、知られることでしょう。


(まうみ注・外交政策のスピーチライターは、ホワイトハウスのローズ大統領副補佐官ですが、今回のこのスピーチは、オバマ氏自身が手書きで書いたそうです)



全体を通して読むと(聞くと)、良いスピーチだと思います。
でもわたしは、スピーチの冒頭の、この言葉を聞いてすぐに、音声を消してしまいました。

71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。

この人は何を言っているんだろう。
この人は何を言いたいんだろう。

アメリカは、原子爆弾を、旧ソ連との競争に勝とうと躍起になって研究開発し、実用化し、爆撃機に搭載し、投下を命令し、命令通りに投下した国です。
その投下された地上では、吹き飛ばされ、焼かれ、血まみれになって、最後の最後まで苦しんで死んでいった人たち、動物たちがいたのです。
それだけではなく、その後もずっと、恐ろしい後遺症などに苦しめられる人生を強いられ、そして亡くなっていきました。

70年以上も前のこととはいえ、原爆投下をした国の現職の大統領が、まるで他人事のように、昔話のように、そのことを語ったことに、
わたしは大きなショックを受け、当日はとうとう、他の部分を聞けませんでした。

何が死神だ!
何が舞い降りただ!
死神は、あんなものを造り、落としてみようと考え、それを実際に落とした、すべての人間たちだ!
あの、世にも恐ろしい爆弾は、舞い降りてきたのではなく、落とされたのだ。
世界は一変したのではなく、広島と長崎の、人々の暮らしと未来が一変したのだ。


怒りが胸の中をぐるぐる駆け回るのを感じながら、この一週間、たくさんの記事を読んでいました。
その中からひとつ、ここに紹介させてもらいます。
↓以下、転載はじめ

米資本と話をつけたナチ高官が、ドイツを降伏させた段階で、日本の敗北は決定
原爆投下はソ連向け

【櫻井ジャーナル】2016.05.25
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201605250000/
 
バラク・オバマ米大統領は、保有する核兵器を増強するため、
今後30年間に、9000億ドルから1兆ドルを投入する計画を打ち出し、ヨーロッパでは、ロシアに対する核攻撃の準備を進めている。
アメリカは、核兵器を保有していない国を攻撃する口実に、核兵器を利用しているが、
自らが核兵器の保有をやめる姿勢は見せず、「核兵器のない世界」を望んでいるとは到底思えない。


核兵器を口実にして、アメリカ軍が侵略したイラクの場合
ジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると、2003年の開戦から2006年7月までに、約65万人のイラク人が殺された
イギリスのORBは、2007年夏までに、94万6000名から112万人
NGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは、133万9000人余りが殺された、としている。
しかも、殺戮と破壊は今でも続いている

アメリカが、初めて核兵器を実戦で使ったのは、勿論、広島だ。
1945年8月6日、ウラニウム235を使った原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下、9万人から16万6000人を殺しただけでなく、
その後も、原爆が環境中に放出した放射性物質によって、人間を含む生物は殺されてきた

その3日後には、プルトニウム239を利用した「ファット・マン」が長崎に落とされて、3万9000人から8万人が殺され、
広島と同じように、放射線物質の犠牲者も多い


一般に、第2次世界大戦は、1939年9月に、ドイツ軍が「ポーランド回廊」の問題を解決するために、軍事侵攻したときから始まると考えられている
飛び地になっていた、東プロイセンを奪還しようとしたわけだ。
この領土問題がこじれた理由のひとつは、イギリスを後ろ盾とするポーランドが、強硬だったことにあるとも言われている。

ドイツのポーランド侵攻から2日後に、イギリスとフランスは宣戦布告するが、本格的な戦争は、それから約半年の間、始まらない
ドイツも攻撃しなかった
いわゆる「奇妙な戦争」である。

それでもドイツは、1941年4月までに、ヨーロッパ大陸を制圧。
5月10日に、ナチスの副総統だったルドルフ・ヘスが、スコットランドへ単独飛行する。
そこで拘束されてから、1987年8月17日に獄中死するまで、ヘスの口から飛行の目的が語られることはなく、今でも謎とされている。

そして、6月22日に、ドイツ軍はソ連侵略、つまり、バルバロッサ作戦を開始した。
このタイミングから、ヘスがイギリスへ向かったのは、ソ連を攻めるにあたり、西からの攻撃を避けるために、話し合うことが目的だったとも推測されている。

1942年8月に、ドイツ軍は、スターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するが、
11月からソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人は、包囲されてしまう。
生き残ったドイツ軍9万1000名は、1943年1月31日に降伏、2月2日に、戦闘は終結した。
この段階で、ドイツの敗北は決定的
ドイツが降伏すれば、日本は戦争を続けられないと考えられていたわけで、日本の敗北も不可避だった

その後、ソ連軍は、西に向かって進撃を開始。
慌てたアメリカ軍は、シチリア島へ上陸するのだが、
その際、アメリカ海軍のONI(対諜報部)は、ユダヤ系ギャングのメイヤー・ランスキーを介して、イタリア系犯罪組織のラッキー・ルチアーノに接触、
その紹介で、シチリア島に君臨していた大ボスのカロージェロ・ビッツィーニと、手を組むことに成功した。
シチリア島がマフィアの島になった一因はここにある。

1943年9月に、イタリアは無条件降伏、44年6月には、ノルマンディーへ上陸する。
「オーバーロード作戦」だ。
この上陸作戦は、1943年5月、ドイツ軍がソ連軍に降伏した3カ月後に、ワシントンDCで練られている。

スターリングラードの戦いで、ドイツ軍が劣勢になると、ドイツのSS(ナチ親衛隊)は、アメリカとの単独講和への道を探りはじめ、
実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘを、スイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。
当時、ダレスは、戦時情報機関OSSのSIB(秘密情報部)を率いていたが、
兄のジョン・フォスター・ダレスと同じように、ウォール街の大物弁護士、つまり巨大資本の代理人だ。

1944年になると、ドイツ陸軍参謀本部で、ソ連情報を担当していた、第12課の課長のラインハルト・ゲーレン准将(当時)も、ダレスに接触、
45年初頭に、ダレスは、SSの高官だったカール・ウルフに、隠れ家を提供。
北イタリアにおける、ドイツ将兵の降伏についての秘密会談も行われた。
サンライズ作戦だ。
ウルフは、イタリアにいる親衛隊を統括、アメリカ軍のイタリア占領を、迅速に実現させることができる立場にあった。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

こうしたドイツとアメリカが、単独降伏の秘密交渉を、水面下で行っていることを察知したソ連のスターリンは、
ドイツに、ソ連を再攻撃させる動きだとして、アメリカ政府を非難
する。
ルーズベルト大統領は、そうした交渉はしていないと反論しているが、そのルーズベルトは、1945年4月に、執務室で急死。
5月にはドイツが降伏、その直後に、ウィンストン・チャーチル英首相は、JPS(合同作戦本部)に対し、ソ連への軍事侵攻作戦を作成するように、命令している。
そして、5月22日に提出されたのが、「アンシンカブル作戦」。
7月1日に、米英軍数十師団とドイツの10師団が、「第3次世界大戦」を始める想定になっていた

この作戦が発動されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したため。
攻撃ではなく、防衛に集中するべきだという判断だったが、日本が降伏する前にソ連と戦争を始めると、日本とソ連が手を組むかもしれないとも懸念したようだ。

ドイツが降伏した段階で、日本の命運は尽きたと、連合国側は判断したはずで、その前から、米英の支配層は、ソ連と戦争を始める準備をしていた。
ソ連と日本が、手を組む可能性を消しておくために、原爆を投下したという可能性はあるが、かなり小さい。
ソ連を意識しての原爆投下だった、と考えるべきだろう。

チャーチルは、1945年7月26日に退陣するが、翌46年3月5日に、アメリカのミズーリ州フルトンで、
「バルト海のステッティンから、アドリア海のトリエステにいたるまで、鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、
47年には、アメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するよう、ハリー・トルーマン大統領を説得して欲しい、と頼んでいたという。

その後、アメリカの好戦派が、ソ連に対する先制核攻撃を目論んできたことは、本ブログで何度も指摘してきた。
1991年12月に、ソ連が消滅した後、ロシアはウォール街の属国になるが、
21世紀に入って再自立、米英支配層は、再びロシアを殲滅しようと目論んでいる
その流れに、オバマも乗っている


↑以上、転載おわり


日本に落とされた原子爆弾は2発。
けれども、同じ原子爆弾ではありませんでした。
広島に落とされたものは、濃縮ウランが原料のもので、開発に時間がかからないものでした。
長崎に落とされたものは、プルトニウムが原料のもので、その当時の最先端の技術が取り入れられた、だからその分、開発に手間取ったものでした。
戦争を終わらせるための爆撃だなんて、嘘も方便。
本当に終わらせたかったのなら、製造が容易な、濃縮ウランを原料とした原発を使えばよかったのですから。

いずれにせよ、どちらもソ連への見せしめであり、核兵器の威力がどんなものかを知りたいという欲であり、世界をこれで支配できる確信を得るための爆撃でした。

長崎に落とされたプルトニウム原子爆弾の破壊力に満足したものの、この原料は自然界には存在しません。
だから、プルトニウムを作らねばならない、作らせねばならない。
そのための施設が必要だ。
プルトニウムを作る際に出る熱を利用して湯を沸かし、電気を作るという設備なら、エネルギー供給に貢献するという誤魔化しが利く。
それを、『核の平和利用』などというトンデモな詐欺文句に乗せて、大手の広告代理店を始めとする報道機関に、一斉に伝えさせれば良い。
市民は報道、そして教育に、いとも簡単にだまされるのだから。
そしてもし、気づいた者がいたら、容赦なく潰せばよい。
見せしめになるし、他の者たちの新たな行動を、あらかじめ抑え込む効果も期待できる。

そもそもの始まり、そもそもの出発が、核兵器であり、これをできるだけ多く所有することが目的だったのです。

2009年の、プラハでのオバマ氏の演説は、だから本当に意味があり、世界に大きな波紋を広げました。
でも、アメリカ国内での反応は鈍く、このことを盛り上げないようにしようとする動きが、あちこちに見られました。
軍需産業にとっては、全く歓迎できない『核廃絶』を、オバマ氏の願いや決意だけで実現できるはずもなく、
だから具体的な取り組みも無し、他の国の政府とともに取り組もうという動きも無し、
無い無いづくめのまま、あっという間に8年が過ぎ去ろうとしています。

大統領であったからこそ動きが取れなかったのなら、大統領でなくなってからのオバマ氏の行動を、力を、今後も注視していく必要があります。
あの広島訪問の際も、重さが20キロもある、大統領専用の、核兵器使用の発令をする装置が入ったアタッシュケースが、常にオバマ氏のそばにありました。

『私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って、恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません』

この言葉を、元大統領になったその日から、どうやって実現していくのか。
わたしたちはその実現への道を、どんなふうに支えることができるのか。
巨大な組織の方向転換の難しさは、想像を絶するものがあるでしょう。

でも、あきらめずに、前を向いて、くじけてもまた立ち上がり、実現に向けて努力することを、続けていかねばなりません。


おまけですが、オバマ氏の横で、満足気な顔をして立っていた男のことを少し。

オバマ広島訪問の一方で安倍首相の冷淡!
原爆養護ホーム訪問をドタキャンして、散髪と歯医者へ行っていた

【LITERA】2016.05.29
http://lite-ra.com/2016/05/post-2289.html

“オバマの歴史的広島訪問の立役者は自分だ”、と言わんばかりの安倍首相。
そのじつ、まったく広島のことなど、一顧だにしてこなかった。

・2014年の「原爆の日」を迎えた広島で、昨年とほぼ同じ“コピペ演説”を披露し批判を浴びたのに、いけしゃあしゃあと長崎でも、コピペのままだった。

・被爆者たちから起こっていた、集団的自衛権行使容認への批判の声に対し、「見解の相違ですね」の一言で切って捨てた。

・被爆した人たちの暮らす原爆養護ホームの訪問を、サボっていた。


毎年8月6日と8月9日、総理大臣は、それぞれ広島と長崎で行われる、式典に出席するだけでなく、
それぞれの地にある、原爆養護ホームを訪問することが、慣例になっている。
だが、安倍首相は、総理大臣に返り咲いた2013年の訪問を最後に、2014年、2015年と、訪問を行っていない
 
しかも、2014年の場合、当初は行く予定だったのを、急遽取りやめている
事実、訪問が予定されていた、原爆養護ホーム「矢野おりづる園」の当日のブログには、こう綴られている。

当初、安倍晋三首相も来訪の予定でしたが、スケジュールの都合で急遽帰京となり、国務大臣お二人での慰問となりました〉
 
突然、予定を変更するとは、なにか緊急で、東京に戻らざるを得ない大きな問題でもあったのか。
そう思い、当時の首相動静を調べてみたのだが、安倍首相は、驚きの行動を行っていた。
 
まず、安倍首相は、東京に戻るなり、議員会館内の歯科診療室に直行
さらに夕方には、行きつけにしている青山の美容室で、ヘアカットをしている。
つまり安倍首相は、原爆養護ホームへの訪問をドタキャンして、歯の治療や散髪をしていたのだ。
同年の長崎も同様だ。
原爆養護ホームを訪問することなく帰京すると、一旦、渋谷の私邸に戻り、その後すぐ、別荘のある山梨へ
そして、大学時代の同窓生たちとともに、炭火焼き料理を楽しんでいる

原爆投下から70年という、節目を迎えた昨年も、安倍首相は、広島・長崎の、原爆養護ホーム訪問を行っていない
ではその日、安倍首相はなにをしていたか。
6日は、帰京すると、取り巻きの大臣たちと会い、夜はお気に入りのホテル・アンダーズ東京の51階にある「アンダーズ タヴァン」で、高級ヨーロッパ料理に舌鼓
9日は、羽田空港から、私邸へ直帰している。