少し前のことだが、駒沢公園の「東京ラーメンショー」に行ってきた。
2年前の9月、ある人から「ラーメンショーに行きましょうよ」というメールをいただいたのだが、そのお誘いを実行することができなかった。
なぜなら、そのメールの主が亡くなったからだ。
私は、その人を「教頭先生」と呼んでいた。
高校時代の教頭だったから、当たり前だが。
私は今もそうだが、クセのある、性格の悪い男だった。
絶えず、人とは違うことをしようと思う「はみ出しもの」でもあった。
学校では、宿題や提出物を出すことをいつも拒んだ。
宿題などというのは、授業をまともに聞いてない人が、それを補うためにやるものだ。
自分は、授業を集中して真面目に聞いているから宿題は必要ない。
だから、提出する意味がない。
いい点を取れば、何の問題もないだろう。
そんな可愛げのないガキだった。
しかし、私は感謝すべきことに、担任に恵まれていた。
どの担任も、そんな私を野放しにしてくれたのである。
きっと、先生方はわかっておられたのだ、と今にして思う。
「こいつは、頭を押さえつけたら、きっと道を踏み外す危ないやつだ。自由に泳がせていれば、絶対に害はないだろう」
そんなこともあって、私は伸び伸び、スイスイと泳がせていただいた。
だが、高校3年の担任だけが、常識的な教師だった。
横並びを重んじ、はみ出し生徒を許さない、そこら辺に大勢いる普通の教師だったのだ。
宿題や提出物を出さない私をクラス全員の前で名指しで断罪した。
「宿題を出さないとテストでたとえ百点をとっても零点扱いにする。成績表も1だ。私は、普段の提出物を重要視する。そうしないと、普段真面目に勉強している生徒が報われないからね。1が嫌なら提出物を出すんだ。俺は例外は許さない!」
それに対しての私の答えは簡単だった。
それなら、俺、学校辞めますから。
そう言い残して、教室を後にした。
小学校1年から続いていた「皆勤賞」が途切れた瞬間だった。
実は、私は学校が大好きで、高熱があったときも学校を休まなかった。
大学に上がってからは、講義のない日でも大学に行くことがあった。
おかげで、変人扱いされたが、「変人」なのは間違いないので反論はしなかった。
私は、家に帰る前に、図書館に立ち寄った。
どうすれば転校できるかを調べるためだった。
今だったらインターネットで簡単に調べられただろうが、当時は図書館で調べるのが一番効率的な方法だった。
というより、それしか選択肢がなかった。
すぐには方法が見つからなかったので、次の日も通い、その次の日も通った。
そして、色々なところに電話をして、根本的な解決方法を教えてもらった。
辞める、と宣言した以上、もう学校に行く気はない。
退学届けは出さなければいけないだろうが、新しい高校の目処が立ってからでいいだろう、と後回しにした。
幸運にも、親切な協会の方に、「編入試験ならできるところがある」と教えていただいたことで、私は決心した。
次の日、母が仕事から帰ってきたら、説得してみようと意を決した。
転校したとしても、その学校が私を野放しにしてくれるとは限らないのだが、もう走り出してしまった以上、覚悟を決めるしかなかった。
だが、そんな人生の一大転機になる日の午後1時過ぎに、予期しない来客があった。
高校の教頭先生が陸上部の顧問を連れて、我が家にやってきたのである。
教頭先生の顔は知っていたが、話をしたことがなかった。
私のことなど知らないはずなのに、なぜ来たのだろう?
そんな風に訝っていたら、教頭先生が「すまなかったねえ」と、いきなり言ったのだ。
言葉だけでなく、頭も下げた。
私は、混乱した。
客観的に考えたら、担任の言うことを聞かない私の方が悪い。
はみ出しものの私は叱られて当然なのに、教頭の方が私に頭を下げたのである。
そして、もう一度「すまなかったね」と教頭先生。
そのあと、教頭先生は私の目をまっすぐ見て、「明日から学校に来てくれないだろうか」と、穏やかだが威厳を感じさせる声で言った。
さらに、「すべて解決したから、君は今まで通りでいてくれていいんだよ」とも言ってくれた。
拒む理由はなかった。
私の心の中にあった20トンの氷が、瞬時に溶けた瞬間だった。
私は、頭を下げた。
そのとき、私の心に暖かい風が入ったのを感じたが、陸上部の顧問の言葉で、その風は少し冷えた。
「みんなが、おまえのことを心配しているんだ。もう授業は無理だが、練習だけでも出ないか。みんな喜ぶぞぉー」
それに対して、私は実に私らしい可愛げのない言葉を返した。
「俺、そういう青春的なことは嫌いなんで、明日から行きます」
教頭先生は、手を叩いて喜んでくれた。
私が在学した学校は、無断欠席が5日続くと停学という規則があった。
私は、6日間無断で休んだが、罰は受けなかった。
そればかりか、その6日間を出席扱いにしてくれたのだ。
だから、私は高校を卒業するまで「皆勤賞」だった。
おそらく、教頭先生が「魔法」を使ってくれたのだと思う。
そのことがあってから、教頭先生は陸上部の練習を頻繁に見に来て、その都度私に声をかけてくれるようになった。
なぜ教頭先生が、一生徒の私をそれほど気にかけてくれたのかは、わからない。
一度も聞いたことがない。
しかし、俺は、先生に恵まれているな、運がいいな、とは強く思った。
感謝した。
教頭先生は、その私立高校で60歳まで教頭を続け、定年後は高校の図書館長として5年を過ごした。
70歳を過ぎてから、独学でパソコンを習得し、デジタルカメラも自在に扱えるようになった。
散歩の途中に立ち寄った蕎麦屋で、大好物の鴨南蛮をカメラに収めて、メールで送ってくれることも度々だった。
そんな鴨南蛮の画像が、私のプライベート・ファイルの中に30個以上ある。
それは、いま私の宝物になっていた。
そして2年前、教頭先生の息子さんの名前で、訃報をいただいた。
その中に「天寿を全うしました」とあった。
それを読んだとき、私は、違う、と首を振った。
教頭先生は全うなんかしていない。
だって、俺に、「一緒にラーメンショーに行こうよ」というメールをくれたのだから。
2年前は、訃報をいただいたとき、もうラーメンショーが終わっていたので行けなかった。
昨年は、私の体がいうことをきかなかったので、行けなかった。
今年は、幸運にも体が動く程度には回復したので、行くことができた。
食うラーメンは、教頭先生の出身地・長野のラーメンと決めていた。
「王国の味噌ラーメン」
一杯目は、教頭先生の分だ。
濃厚な味噌が鼻を刺激するスープと太い麺。
信州の味が詰まったラーメンだった。
食いながら、きっと教頭先生は、こう言ったに違いない。
「Mくん、美味しいねえ。こんなにも美味しいものが食べられるなんて、僕たちは幸せだねぇ」
また行列に並んで、二杯目を食った。
これは、私の分だ。
ふた口食って、味がわからなくなった。
目と鼻から、大量に水が流れてきたからだ。
教頭先生。
はみ出しものを救っていただいたこと、片時も忘れたことがありません。
ありがとうございました。
2年前の9月、ある人から「ラーメンショーに行きましょうよ」というメールをいただいたのだが、そのお誘いを実行することができなかった。
なぜなら、そのメールの主が亡くなったからだ。
私は、その人を「教頭先生」と呼んでいた。
高校時代の教頭だったから、当たり前だが。
私は今もそうだが、クセのある、性格の悪い男だった。
絶えず、人とは違うことをしようと思う「はみ出しもの」でもあった。
学校では、宿題や提出物を出すことをいつも拒んだ。
宿題などというのは、授業をまともに聞いてない人が、それを補うためにやるものだ。
自分は、授業を集中して真面目に聞いているから宿題は必要ない。
だから、提出する意味がない。
いい点を取れば、何の問題もないだろう。
そんな可愛げのないガキだった。
しかし、私は感謝すべきことに、担任に恵まれていた。
どの担任も、そんな私を野放しにしてくれたのである。
きっと、先生方はわかっておられたのだ、と今にして思う。
「こいつは、頭を押さえつけたら、きっと道を踏み外す危ないやつだ。自由に泳がせていれば、絶対に害はないだろう」
そんなこともあって、私は伸び伸び、スイスイと泳がせていただいた。
だが、高校3年の担任だけが、常識的な教師だった。
横並びを重んじ、はみ出し生徒を許さない、そこら辺に大勢いる普通の教師だったのだ。
宿題や提出物を出さない私をクラス全員の前で名指しで断罪した。
「宿題を出さないとテストでたとえ百点をとっても零点扱いにする。成績表も1だ。私は、普段の提出物を重要視する。そうしないと、普段真面目に勉強している生徒が報われないからね。1が嫌なら提出物を出すんだ。俺は例外は許さない!」
それに対しての私の答えは簡単だった。
それなら、俺、学校辞めますから。
そう言い残して、教室を後にした。
小学校1年から続いていた「皆勤賞」が途切れた瞬間だった。
実は、私は学校が大好きで、高熱があったときも学校を休まなかった。
大学に上がってからは、講義のない日でも大学に行くことがあった。
おかげで、変人扱いされたが、「変人」なのは間違いないので反論はしなかった。
私は、家に帰る前に、図書館に立ち寄った。
どうすれば転校できるかを調べるためだった。
今だったらインターネットで簡単に調べられただろうが、当時は図書館で調べるのが一番効率的な方法だった。
というより、それしか選択肢がなかった。
すぐには方法が見つからなかったので、次の日も通い、その次の日も通った。
そして、色々なところに電話をして、根本的な解決方法を教えてもらった。
辞める、と宣言した以上、もう学校に行く気はない。
退学届けは出さなければいけないだろうが、新しい高校の目処が立ってからでいいだろう、と後回しにした。
幸運にも、親切な協会の方に、「編入試験ならできるところがある」と教えていただいたことで、私は決心した。
次の日、母が仕事から帰ってきたら、説得してみようと意を決した。
転校したとしても、その学校が私を野放しにしてくれるとは限らないのだが、もう走り出してしまった以上、覚悟を決めるしかなかった。
だが、そんな人生の一大転機になる日の午後1時過ぎに、予期しない来客があった。
高校の教頭先生が陸上部の顧問を連れて、我が家にやってきたのである。
教頭先生の顔は知っていたが、話をしたことがなかった。
私のことなど知らないはずなのに、なぜ来たのだろう?
そんな風に訝っていたら、教頭先生が「すまなかったねえ」と、いきなり言ったのだ。
言葉だけでなく、頭も下げた。
私は、混乱した。
客観的に考えたら、担任の言うことを聞かない私の方が悪い。
はみ出しものの私は叱られて当然なのに、教頭の方が私に頭を下げたのである。
そして、もう一度「すまなかったね」と教頭先生。
そのあと、教頭先生は私の目をまっすぐ見て、「明日から学校に来てくれないだろうか」と、穏やかだが威厳を感じさせる声で言った。
さらに、「すべて解決したから、君は今まで通りでいてくれていいんだよ」とも言ってくれた。
拒む理由はなかった。
私の心の中にあった20トンの氷が、瞬時に溶けた瞬間だった。
私は、頭を下げた。
そのとき、私の心に暖かい風が入ったのを感じたが、陸上部の顧問の言葉で、その風は少し冷えた。
「みんなが、おまえのことを心配しているんだ。もう授業は無理だが、練習だけでも出ないか。みんな喜ぶぞぉー」
それに対して、私は実に私らしい可愛げのない言葉を返した。
「俺、そういう青春的なことは嫌いなんで、明日から行きます」
教頭先生は、手を叩いて喜んでくれた。
私が在学した学校は、無断欠席が5日続くと停学という規則があった。
私は、6日間無断で休んだが、罰は受けなかった。
そればかりか、その6日間を出席扱いにしてくれたのだ。
だから、私は高校を卒業するまで「皆勤賞」だった。
おそらく、教頭先生が「魔法」を使ってくれたのだと思う。
そのことがあってから、教頭先生は陸上部の練習を頻繁に見に来て、その都度私に声をかけてくれるようになった。
なぜ教頭先生が、一生徒の私をそれほど気にかけてくれたのかは、わからない。
一度も聞いたことがない。
しかし、俺は、先生に恵まれているな、運がいいな、とは強く思った。
感謝した。
教頭先生は、その私立高校で60歳まで教頭を続け、定年後は高校の図書館長として5年を過ごした。
70歳を過ぎてから、独学でパソコンを習得し、デジタルカメラも自在に扱えるようになった。
散歩の途中に立ち寄った蕎麦屋で、大好物の鴨南蛮をカメラに収めて、メールで送ってくれることも度々だった。
そんな鴨南蛮の画像が、私のプライベート・ファイルの中に30個以上ある。
それは、いま私の宝物になっていた。
そして2年前、教頭先生の息子さんの名前で、訃報をいただいた。
その中に「天寿を全うしました」とあった。
それを読んだとき、私は、違う、と首を振った。
教頭先生は全うなんかしていない。
だって、俺に、「一緒にラーメンショーに行こうよ」というメールをくれたのだから。
2年前は、訃報をいただいたとき、もうラーメンショーが終わっていたので行けなかった。
昨年は、私の体がいうことをきかなかったので、行けなかった。
今年は、幸運にも体が動く程度には回復したので、行くことができた。
食うラーメンは、教頭先生の出身地・長野のラーメンと決めていた。
「王国の味噌ラーメン」
一杯目は、教頭先生の分だ。
濃厚な味噌が鼻を刺激するスープと太い麺。
信州の味が詰まったラーメンだった。
食いながら、きっと教頭先生は、こう言ったに違いない。
「Mくん、美味しいねえ。こんなにも美味しいものが食べられるなんて、僕たちは幸せだねぇ」
また行列に並んで、二杯目を食った。
これは、私の分だ。
ふた口食って、味がわからなくなった。
目と鼻から、大量に水が流れてきたからだ。
教頭先生。
はみ出しものを救っていただいたこと、片時も忘れたことがありません。
ありがとうございました。
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