リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

はみ出しものの「ありがとう」

2015-11-08 08:11:00 | オヤジの日記
少し前のことだが、駒沢公園の「東京ラーメンショー」に行ってきた。

2年前の9月、ある人から「ラーメンショーに行きましょうよ」というメールをいただいたのだが、そのお誘いを実行することができなかった。
なぜなら、そのメールの主が亡くなったからだ。

私は、その人を「教頭先生」と呼んでいた。
高校時代の教頭だったから、当たり前だが。

私は今もそうだが、クセのある、性格の悪い男だった。
絶えず、人とは違うことをしようと思う「はみ出しもの」でもあった。

学校では、宿題や提出物を出すことをいつも拒んだ。

宿題などというのは、授業をまともに聞いてない人が、それを補うためにやるものだ。
自分は、授業を集中して真面目に聞いているから宿題は必要ない。
だから、提出する意味がない。

いい点を取れば、何の問題もないだろう。

そんな可愛げのないガキだった。

しかし、私は感謝すべきことに、担任に恵まれていた。
どの担任も、そんな私を野放しにしてくれたのである。

きっと、先生方はわかっておられたのだ、と今にして思う。
「こいつは、頭を押さえつけたら、きっと道を踏み外す危ないやつだ。自由に泳がせていれば、絶対に害はないだろう」

そんなこともあって、私は伸び伸び、スイスイと泳がせていただいた。

だが、高校3年の担任だけが、常識的な教師だった。
横並びを重んじ、はみ出し生徒を許さない、そこら辺に大勢いる普通の教師だったのだ。

宿題や提出物を出さない私をクラス全員の前で名指しで断罪した。
「宿題を出さないとテストでたとえ百点をとっても零点扱いにする。成績表も1だ。私は、普段の提出物を重要視する。そうしないと、普段真面目に勉強している生徒が報われないからね。1が嫌なら提出物を出すんだ。俺は例外は許さない!」

それに対しての私の答えは簡単だった。

それなら、俺、学校辞めますから。

そう言い残して、教室を後にした。
小学校1年から続いていた「皆勤賞」が途切れた瞬間だった。

実は、私は学校が大好きで、高熱があったときも学校を休まなかった。
大学に上がってからは、講義のない日でも大学に行くことがあった。

おかげで、変人扱いされたが、「変人」なのは間違いないので反論はしなかった。


私は、家に帰る前に、図書館に立ち寄った。
どうすれば転校できるかを調べるためだった。

今だったらインターネットで簡単に調べられただろうが、当時は図書館で調べるのが一番効率的な方法だった。
というより、それしか選択肢がなかった。

すぐには方法が見つからなかったので、次の日も通い、その次の日も通った。
そして、色々なところに電話をして、根本的な解決方法を教えてもらった。

辞める、と宣言した以上、もう学校に行く気はない。
退学届けは出さなければいけないだろうが、新しい高校の目処が立ってからでいいだろう、と後回しにした。

幸運にも、親切な協会の方に、「編入試験ならできるところがある」と教えていただいたことで、私は決心した。
次の日、母が仕事から帰ってきたら、説得してみようと意を決した。

転校したとしても、その学校が私を野放しにしてくれるとは限らないのだが、もう走り出してしまった以上、覚悟を決めるしかなかった。

だが、そんな人生の一大転機になる日の午後1時過ぎに、予期しない来客があった。

高校の教頭先生が陸上部の顧問を連れて、我が家にやってきたのである。
教頭先生の顔は知っていたが、話をしたことがなかった。

私のことなど知らないはずなのに、なぜ来たのだろう?
そんな風に訝っていたら、教頭先生が「すまなかったねえ」と、いきなり言ったのだ。
言葉だけでなく、頭も下げた。

私は、混乱した。

客観的に考えたら、担任の言うことを聞かない私の方が悪い。
はみ出しものの私は叱られて当然なのに、教頭の方が私に頭を下げたのである。

そして、もう一度「すまなかったね」と教頭先生。
そのあと、教頭先生は私の目をまっすぐ見て、「明日から学校に来てくれないだろうか」と、穏やかだが威厳を感じさせる声で言った。

さらに、「すべて解決したから、君は今まで通りでいてくれていいんだよ」とも言ってくれた。

拒む理由はなかった。
私の心の中にあった20トンの氷が、瞬時に溶けた瞬間だった。

私は、頭を下げた。

そのとき、私の心に暖かい風が入ったのを感じたが、陸上部の顧問の言葉で、その風は少し冷えた。
「みんなが、おまえのことを心配しているんだ。もう授業は無理だが、練習だけでも出ないか。みんな喜ぶぞぉー」

それに対して、私は実に私らしい可愛げのない言葉を返した。
「俺、そういう青春的なことは嫌いなんで、明日から行きます」

教頭先生は、手を叩いて喜んでくれた。

私が在学した学校は、無断欠席が5日続くと停学という規則があった。
私は、6日間無断で休んだが、罰は受けなかった。
そればかりか、その6日間を出席扱いにしてくれたのだ。

だから、私は高校を卒業するまで「皆勤賞」だった。
おそらく、教頭先生が「魔法」を使ってくれたのだと思う。

そのことがあってから、教頭先生は陸上部の練習を頻繁に見に来て、その都度私に声をかけてくれるようになった。

なぜ教頭先生が、一生徒の私をそれほど気にかけてくれたのかは、わからない。
一度も聞いたことがない。

しかし、俺は、先生に恵まれているな、運がいいな、とは強く思った。
感謝した。

教頭先生は、その私立高校で60歳まで教頭を続け、定年後は高校の図書館長として5年を過ごした。
70歳を過ぎてから、独学でパソコンを習得し、デジタルカメラも自在に扱えるようになった。

散歩の途中に立ち寄った蕎麦屋で、大好物の鴨南蛮をカメラに収めて、メールで送ってくれることも度々だった。
そんな鴨南蛮の画像が、私のプライベート・ファイルの中に30個以上ある。
それは、いま私の宝物になっていた。


そして2年前、教頭先生の息子さんの名前で、訃報をいただいた。
その中に「天寿を全うしました」とあった。

それを読んだとき、私は、違う、と首を振った。

教頭先生は全うなんかしていない。
だって、俺に、「一緒にラーメンショーに行こうよ」というメールをくれたのだから。

2年前は、訃報をいただいたとき、もうラーメンショーが終わっていたので行けなかった。
昨年は、私の体がいうことをきかなかったので、行けなかった。


今年は、幸運にも体が動く程度には回復したので、行くことができた。

食うラーメンは、教頭先生の出身地・長野のラーメンと決めていた。

「王国の味噌ラーメン」

一杯目は、教頭先生の分だ。
濃厚な味噌が鼻を刺激するスープと太い麺。
信州の味が詰まったラーメンだった。

食いながら、きっと教頭先生は、こう言ったに違いない。
「Mくん、美味しいねえ。こんなにも美味しいものが食べられるなんて、僕たちは幸せだねぇ」

また行列に並んで、二杯目を食った。
これは、私の分だ。

ふた口食って、味がわからなくなった。

目と鼻から、大量に水が流れてきたからだ。




教頭先生。

はみ出しものを救っていただいたこと、片時も忘れたことがありません。


ありがとうございました。




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