土曜日。
レントゲン写真を見ながら、「なるほど」という医師と出会った。
「足を見せてください」と言われたので、自慢の美脚を見せた。医師は、やはり「なるほど」と頷いた。
そして、「次回は2週間後の土曜日に見せてください」と言った。
なるほど、と私が言うと、医師が私の顔を見てニヤッと笑った。
「なるほど」が自分の口癖だということが、わかっていたようだ。
今回も娘が付いてきた。
「何て言われた?」と聞かれたので、なるほど、と言われたと答えた。次は2週間後に来いってさ。
「なるほど」
これから、世界一面白い男に会うのだが、付いてくるかい。
「でも、仕事だろ。邪魔じゃないのか」
邪魔になるような仕事じゃないんだ。相手はアホだから、気にしないと思うよ。
「ああ、イナバさんだね。おばあちゃんの葬儀のときに見かけたことがある。付いていってやろう」
アホのイナバは、バーミヤンで待っていた。
午前11時43分までに来てくれ、と言ったのに36分ごろ着いたという。7分差は大きい。フライングしすぎだよ、と叱ってあげた。
娘の顔を見たイナバ君は、「久しぶりで、初めまして」と頭をチョコンと下げた。
久しぶりで、初めまして、というのは変な日本語だと思われる方もいるかもしれない。
しかし、この日本語は、イナバ君にしては、かなり正確だ。
イナバ君と娘は、私の母の葬儀で初めて会った。そのときは、言葉を交わさなかった。しかし、今回初めて言葉を交わした。
だから、「久しぶりで、初めまして」なのである。
打ち合わせの前に、昼メシを食うことにした。
イナバ君は、レタスチャーハンとドリンクバイキング、娘は味玉ラーメンとドリンクバイキング、私はダブル餃子と生ビールだ。
2週間ぶりのアルコール。
おそらく酒を飲んでも脛の怪我には、影響はなかったと思う。
5年前、主治医から「重い貧血なので、しばらくはお酒を控えてください」と言われたことがあった。「でも、たまには飲んでもいいと思います」とも言われた。
しかし、1年半断酒した。
初日は「酒が飲みてえなあ」と思ったが、2日目には、思わなくなった。そのとき、俺はアル中じゃなかったんだ、と妙に安心した記憶がある。
だから、今回も簡単に酒を断てた。飲まなくても平気だった。
私にとって、酒は、ただの飲み物だ。その飲み物がなくても困ることはない。
偉そうに言うことではないと思うが。
食いながら、イナバ君が、面白いことを言った。
「この間、吉祥寺に行ったら、面白いバスを見つけたんですよ。バスの表示が、『吉祥寺駅から吉祥寺駅』になっていたんです。しかも客が結構乗ってるんですよね。吉祥寺から吉祥寺じゃ、1メートルも進めないじゃないですか。何で乗るんですか」
娘が横で、私の顔を仰ぎ見た。これは、冗談で言っているの? という顔だ。
イナバ君は、いつでもマジですよ。冗談、という概念から一番遠い場所で生きていますから。
イナバ君。それは、巡回バスというものだよ。山手線を思い出してごらん。決まった駅に止まりながら回り続けているだろ。それと同じだ。
「ああ、バスの山手線ってことですね」
そうだね。
「ところで」とまたイナバ君。
「うちのボロ雑巾の名前、モネとドガって言うじゃないですか」
娘がまた私を見たので、ボルゾイ犬、と小声で教えた。娘は含み笑いで頷いた。
「ボク知らなかったんですけど、有名な画家の名前だったんですね。でも、モネはわかりますけど、ドガってなんですか。山本ドガですか、高橋ドガですか、加藤ドガですか、おかしすぎるでしょう」
柴咲ドガね。
「ああ、柴咲だったか!」
(本当は、エドガー・ドガね)
そんな楽しい会話のあと、打ち合わせをした。
年に3、4回発刊される同人誌の組版である。今回が、記念すべき50号目だ。
だから、記念に14人の執筆陣の文章をすべて載せることになった。普段は、8人から11人だから、いつもよりは手間がかかる。
それに、ここ数年は、1号につき、大抵2人は原稿が書けない、と泣きついてくるご老人がいた。そんなときは、私が取調室で、カツ丼を食いながら、ご老人に事情聴取をして、何を書きたいかを聞いて代筆することになる。
その度に、私は都立図書館や資料館に足を運んで、資料を漁り、文章を組み立てるのだ。大変、面倒くさい。
世の中には、インターネットという便利なものがある。しかし、この代筆をし始めてから、私は、インターネットは平気で嘘をつくということに気付かされた。
4年ほど前のことだが、ちょうど本題に合った文献を2つ見つけたので、それを参考にして抜粋という注釈を入れて文章をまとめた。
ご老人に読んでもらったところ、「年代が違うよね」「こんな町名はないよ」「街道は一つじゃなくて二つだから」など九つの間違いを指摘された。
二つの文献で、明らかに間違っていたのが九つ。おそらく抜粋以外のところで、間違いは他にもあったことだろう。気になるのは、二つの文献とも間違っていた箇所が似かよっていたことだ。
つまり、どちらか一方が、私と同じく相手の文献を単純に鵜呑みにしていたから、間違っている箇所も同じだったということだ。
そのことがあってから、私はインターネットに頼るのをやめた。自分で調べることにした。手間を惜しんでいたら、ロクなことにならないことを学習したからだ。
前回からは、イナバ君がご老人たちのもとに出向いて、ICレコーダーで話を録音し、それを音声データとして送ってくれたから、私自身がご老人たちに話を聞く手間が省けた。これは有難い。
今回も音声データをもらった。これだけで、能率が違う。時短になる。イナバ君はアホだが、いいアホだ。いいアホはいい。
打ち合わせは、20分程度で終わった。
「Mさん、生ビール頼みましょうよ」とアホが気を使ってくれた。ついでにダブル餃子もお願いできるかな。
アホが、頼んでくれた(イナバ君は大金持ちだから、この程度の出費は痛くもかゆくもない)。
そのあと、アホのイナバ君が唐突に言った。
「菜の花」
イナバ君はいつも唐突なのですよ。話がすぐに飛ぶ。しかも、最初のセンテンスが短い。
娘も「ナノハナ〜〜?」というような顔をしていた。
そんな状況を無視して、イナバ君が話を続けた。
「うちの奥さんが、共同菜園で食用の菜の花を育てているんです」「それでヤシロのおばあちゃんが死にました」
ヤシロのおばあちゃん?
「ヤシロのおばあちゃんは、菜の花が好きで、うちの奥さんの菜園で採れる菜の花の半分以上をいつもあげてたんです。でも、今年の1月に82歳で死にました。だから、菜の花が余っちまったんですね。うちは、それほど菜の花が好きではないので、困ってます」
好きでないのに、なぜ菜の花を育てているんだ。
「そうですよね、アハハハハ」
10日前に47歳になった男とは思えないほど、脳が空に浮かんでいた。軽い脳だねえ。
「それで」とイナバ君が話を続ける。
「Mさん、菜の花、食べる?」。カタコトの日本語だね。
俺は好きだよ。お浸しにしてもいいし、からし和えもいい。パスタにも合う。舞茸と一緒に醤油バターでソテーしても美味い。塩ラーメンのトッピングやアサリの酒蒸しに添えても美味いんだよな。
「じゃあ、あげる」「今日、持ってきたから、あげる」。またカタコトだね。
「車の助手席に置いてある。帰り、持って帰って」
ワカッタ。モッテカエル。
しかし、菜の花君も超超高級車のベンツの助手席に乗せてもらえるとは思わなかったろうな。幸せな菜の花君だ。
それを聞いたイナバ君が、また唐突に言った。
「菜の花って男ですかね、女ですかね」
バイセクシャルだったりして。
「バイセクシーゾーンですか」
そうだね。
「そのセクシーゾーンは、うちの奥さんが茹でて冷凍したものをクーラーボックスに入れて持ってきましたから、ボックスごと持って帰ってください」
さすが奥さん、気がきくね。
そのあと、ダンスの話になった。
イナバ君と娘は、ダンスが得意だ。2人とも運動神経が鈍いくせに、ダンスは上手いのだ。
特にイナバ君は、奥さんと付き合う前に、マイケル・ジャクソン好きの奥さんのために、マイケルのビリー・ジーンのダンスと歌を完全にコピーして披露した。それが決め手になって、イナバ君は、奥さんと付き合ってもらえるようになった。
それ以来、イナバ君は奥さんから「ビリーくん」と呼ばれていた。
娘も子どもの頃からダンスが好きで、中学校のダンスフェスティバルでは、いつもセンターで踊っていた。
イナバくんも娘も有名人のダンスを3回見たら、振りを再現できるというありえない特技を持っていた。
うらやましすぎるぞ。
私など、何を踊っても娘からは「盆踊りか阿波踊りにしか見えないな」と褒められているというのに。
何が違うのだろう。
「才能ですよ」とイナバ。「才能だな」と娘。
何を踊っても盆踊りか阿波踊りに見えるのも一種の才能だと俺は思うのだが。
2人が顔を大きく横に振った。
盆踊りと阿波踊りを極めてやろうと、その瞬間、私は誓った。
そんな楽しい時間を過ごしたのち、イナバ君とバイバイした。
娘と私は、桜がかろうじて残っている国立の大学通りに並べられたベンチに座って、ブス猫のご飯を買って帰ろうか、などと話していた。
そのとき、娘が気づいた。
「おい! 菜の花」
あーーーーーー、忘れてた。
そのとき、ケツのポケットに入れたiPhoneが震えた。イナバ君からだった。
「ごめんくさ〜い。菜の花忘れまーした。今すぐ戻りますけど、どこにいますか」
場所を教えた。イナバ君は、待つこと12分で我々の横のロータリーに超超超高級車のベンツを停めた。
その12分の間に、我々は、娘が「頂き物をするというのに、手ぶらはいかんよな」と言うので、目の前にあった高級洋菓子店の「白十字」で「櫻サブレ」という訳のわからないものを買った。
お互い納得の上で、物々交換をした。
そのとき、イナバ君が店の名前を見て言ったのだ。
「Mさん、この名前変じゃないですか。『白プラス字』って、変でしょ。意味不明です。おかしすぎますよ」
イナバ君、おかしすぎるのは、君だよ。
いつも興味深い話題を軽妙な文章表現で書かれていて読むほどに引き込まれてしまいますが同人誌をやられているとかで納得です。
今日のタイトルの「白プラス字」はいくら考えても理解不可能でしたが最後のオチで思わず飲みかけのお茶を噴き出しました。
これからも楽しい話題を期待しております。
『matsuさんと愉快な仲間たち』最高ですね❗
私も、出来ればお友達になりたいです。(*^-^)
最近貧血がぶり返し、
いやーな鉄剤を飲まなくてはならないのかと少々憂鬱な気分です。
遅くなりましたが、matsuさんの足が早くよくなりますように(。-人-。)
貧血仲間より
ありがとうございます。
このおかしさは、私ではなくイナバ君のおかげです。広角的なアホは、人類を救うと私は思っています。
これからも彼をよろしくお願いします。
ありがとうございます。
貧血仲間というのは、決して自慢できるものではありませんが、たまに飲み会の席で、ヘモグロビンの数値を誇らかに自慢している自分がいます。
「とうとう10を切っちゃってさあ」と言いながら、生ビールを飲み、カキフライを食う自分が嫌いではありません。