天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

映画『渚にて』終末を迎え海軍提督の「おいぼれと一杯やるか」に若き女性副官は「いいえ提督となら喜んで」

2011-03-26 20:23:34 | 日記
今日の続々編日記は、映画『渚にて』(1959年製作 スタンリー・クレイマー監督 グレゴリー・ペック エヴァ・ガードナー フレッド・アステア アンソニー・パーキンス主演)のことです。
この映画で、最後まで残ったオーストラリアにも、放射能汚染が進んで人類最後の日を迎えます。その描き方が余りにも綺麗こと過ぎると、一部の映画評論家から批判されました。しかし、もう何処にも逃げる手立てや方策がなければ、人間は達観した境地に達して、静かに自分の安らかな死を受け入れるのです。
だから、スタンリー・クレイマー監督は、複数の男女カップル(グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナー アンソニー・パーキンスとDonna Anderson 他)や独身の初老科学者(フレッド・アステア)の最後を、粛々淡々と描いていきます。
その中で、私は有名スターでない名もない男女俳優が演じたオーストラリア海軍提督(Jone Tate)とその若き女性副官(Lola Brooks)のエピソードに深く感動しました。以下に、海軍省提督室での、その二人の最後の会話を映画から引用掲載します。
・提督『オズグッド オズグッド!』
・副官『はい』
・提督『いよいよ 来たな!上陸するか?艦に残るか?』
・副官『残ります!(じっと提督を見つめて)』
・提督『では おいぼれと一杯やるか?』
・副官『(彼女は首を振り)いいえ 提督となら喜んで!』
・提督『いつも思ってたが、どうして若い男とデートしないんだ?』
・副官『いません!制服のせいです』
・提督『目がないな 世間の男は!(二人はお互い見つめ合って、グラスを飲み干す)』
何か、これだけで歳の離れた男女の恋愛映画が一つ出来てしまうような結末です。そして、グレゴリー・ペック艦長も、深く愛するようになった女性(エヴァ・ガードナー)と別れて、「死ぬなら故郷で」との乗組員の望みで、汚染され生存者のいない母国アメリカに向けて、死への出航を行なうのです。添付した写真は、その出航したアメリカ原子力潜水艦を見送るエヴァ・ガードナーの後ろ姿です。
この映画には、放射能汚染パニックになって、人々の暴動や掠奪が起きるシーンは何も出てこないです。何故それが発生しないのか?は、それ以上に深刻で絶望的な情況だと、人々が理解したからです。さらに言えば、人間はもう諦めて救いを求め安らかな死を迎えようとするのです。
だから、パニック映画を超越したもっと根深い恐怖や核戦争に対する静かなる告発が、私の胸に迫ってきました。とても良い反戦映画の名作です。
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映画『渚にて』でグレゴリーペック艦長は放射能汚染地の調査員に「1時間後に戻れ美人が大勢いても構うな」

2011-03-26 16:52:23 | 日記
今日の続編は、今久しぶりにお茶の間鑑賞している映画『渚にて』(1959年製作 スタンリー・クレイマー監督 グレゴリー・ペック エヴァ・ガードナー フレッド・アステア アンソニー・パーキンス主演)のことです。
この映画は、1964年第三次世界大戦が起こり核ミサイルが使用され、全世界は放射能に覆われ北半球は死滅し、辛うじて生存者がいる南半球オーストラリアが舞台の終焉を迎えた人類の物語です。とても衝撃的な内容でありながら、人間は終末的な危機にどう対応するか?を静かに訴える反戦映画の名作です。
核戦争が勃発した時、たまたま太平洋を潜航していて生き残った原子力潜水艦の艦長(グレゴリー・ペック)は、人類がまだ生存しているオーストラリアのメルボルンに寄港し、オーストラリア海軍の指揮下に入ります。
そして、死滅した街アメリカのサンディエゴから発信されている謎の信号調査を命じられます。添付した写真は、その防護服を着た調査員を送り出すグレゴリー・ペック艦長(左側)です。グレゴリー・ペック艦長は、その調査を行なう乗組員に
『1時間後に戻れ!スーツやタンクを捨て、10分間シャワーを浴びろ!ハッチを通って中に入るのは君だけだ!素っ裸でな!15分ごとに汽笛を鳴らす 3回目には帰れ!美人が大勢いても構うな!誘惑しようと何しようと帰ってこい!』と適切な帰艦手順を伝え、ユーモアを交えて叱咤激励し、艦外に送り出しています。
この映画を見て、冷静沈着で部下思いの心温かいグレゴリー・ペック艦長のような統括指揮官が、東京電力福島第一原子力発電所での放射能流失防止の戦いには、ほんとうに必要だと私は得心しました。
指示に従わなければ処分すると恫喝する政府高官、作業手順を甘く見てしまう前線指揮官、自らが被災地を直接視察して自己の職分を弁えない国家最高指導者に、この映画『渚にて』を短いだろうが休憩時に是非鑑賞してほしいと、今私は思っています。

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映画『敦煌』三田佳子が原作者井上靖の描く「豊満で肌に艶持つ一糸纏わぬ全裸西夏女」を演じた違和感を抱く

2011-03-26 11:14:37 | 日記
今日の日記は、今お茶の間鑑賞している映画『敦煌』(1988年製作 佐藤純彌監督 吉田剛・佐藤純彌脚本 西田敏行 佐藤浩市主演)のことです。
もうこの映画の舞台になっている歴史的にとても魅力的な街・敦煌を訪れることが出来なくなりましたが、久しぶりに映画鑑賞しました。また、この映画の原作である井上靖著「敦煌」も、昔読んで知っていますので、この原作本を再度熟読しました。
そうしたら、映画版と原作のとても大きな違いに私は気付きました。それは、2項目あります。以下に、それを説明します。
・(1).映画での主演クレジットの序列が、朱王礼役の西田敏行が一番目になっている--これは、明らかに実質の映画と原作の主人公である趙行徳役の佐藤浩市にたいへん失礼な行為です。私は佐藤浩市を一番にするべきであったと思っています。
・(2).原作の冒頭登場する西夏女の描写に大きな違い--原作では、趙行徳が科挙に落第し失意で街を歩くと、黒山の人たかりを見つけます。その原作から、問題の描写を引用・抜粋します。
『行徳の眼に最初映ったものは、木箱の上に置かれた分厚い板の上に横たわっている一人の女のむき出しにされた下半身であった。・・女は一糸纏わぬ全裸の姿で横たわっているのであった。一見して漢人でないことは明らかであった。肌はそれほど白いというのではなかったが、豊満な感じで、行徳がいままで眼にしたことのない艶を持って居り、仰向けにされた顔は顴骨が出て、顎は細く、眼は幾分落ち窪んで暗かった。』
この女性は、後に西夏への通行証を行徳に渡すとても重要な役割を行います。だから、映画では、三田佳子(特別出演)が扮しています。添付した写真は、その映画のシーンの三田佳子です。
しかし、映画では、この原作本の強烈な描写をまったく無視した別な表現(逃げ出した春を商う胡服を着た女を、博徒が街頭で売りに出すとても穏便な場面)になっています。また、原作での女性は、漢人(ほとんど日本人と同じ)は違うエキゾチック容姿になっています。そして、当時の国際化した中国を考えれば、この女性の容姿表現は、映画化に際して特に斟酌する必要があります。
だから、この役をまったく日本人女性の典型である女優・三田佳子が演じるのは、完全なるミスキャストであったと私は思っています。やはり、佐藤純彌監督には、原作に忠実に映像表現してほしかったです。
その為には、この役を広く公開オーディション(職業的な俳優だけでなく踊り子やストリッパー等も含めて)で募集すれば良かったのです。私は、映画鑑賞して、とても残念でしょうがないです。
だから、何時の日か、日本人作家の井上靖著「敦煌」を忠実に映画化した中国人監督(張芸謀ら等)と中国人俳優(梁朝偉ら等)による国際的な歴史作品を製作してほしいと、今私は思っています。
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