田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

合田一道氏「大友亀太郎」を語る

2016-10-23 22:08:42 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌開拓の礎を築いた大友亀太郎が1866(慶応2)年に、当時のサッポロベツに着任して今年で150年が経つという。そのことを記念して、私が密かに敬愛するノンフィクション作家の合田一道氏による講演会が開催されたので受講した。 

 10月20日(木)午後、東区民センターにおいて、札幌村郷土記念館保存会が主催する「幕臣大友亀太郎着任150年記念講演会」が開催された。
 講師は上述のとおりノンフィクション作家の合田一道氏で、「大友亀太郎とその時代」と題して話された。

                    

 会場の東区民センター大ホールは受講しようとする人たちで溢れかえり、主催者はあわてて椅子を追加したが、立見のまま聞いた人も多かったようだ。おそらく東区の関係する開拓の二世・三世の方々がたくさん駆け付けたものと思われる。

 合田氏を私が敬愛するのは、合田氏は歴史に詳しいだけではなく、ストーリーテーラーとしての素晴らしさを感ずるからである。氏が対象とするのは主として地域史であるが、著作が多いこともあって、非常に幅広く対象の現地を調査し、聞き取りを行っている。
 その蓄積があるため、氏の話は常に幅広く、さまざまな事象を有機的に組み合わせて話を展開するため、いつも興味深いお話が聞けるのである。

                
               ※ 私のブログに何度も登場している合田一道氏です。

 今回の話も、受講する方々が大友亀太郎の札幌における事績については熟知している方が多いとみて、大友の事績についてはさらっと触れただけであった。
 そのことより、幕末に北海道の開拓に従事した大友亀太郎と、明治新政府になってから初代判官として札幌の基礎を築いた島義勇が、札幌の地で交流があっただろうと推量する合田氏の話の興味を覚えた。

 大友亀太郎は幕府の役人として蝦夷地に赴任し、現在の木古内、大野などの開墾を指導した後、当時のサッポロベツに入り、元村一帯(現在の札幌東区)を開拓地と定めて、大友堀を造成するなどした。しかし、蝦夷地に渡って3年後、幕府は倒れ明治新政府となった。
 そこで明治新政府が設置した開拓使の首席判官として1869年に赴任したのが島義勇だった。
 島が赴任した当時、大友亀太郎はそれまで開拓した地を開拓使に引き渡すために北海道に残っていた。開拓使は大友の事績を認め、開拓使掌に任ぜられたのだが、開拓使の混乱に失望して北海道を去ったという。

               
               ※ 開拓使判官島義勇の写真を写しながら話す合田氏です。

 史書などに大友と島が交流したとする証拠は認められないが、合田氏は当然二人はあっていただろうと推量する。島が札幌開拓の構想を練るにあたり、開拓の先人である大友の意見を聞いたのは当然だろうという。その根拠は、島が札幌開拓の図面を引いたとき、その基点を大友堀(創成川)にかかる創成橋を起点とし、大友堀に沿った形で東西の基軸を定めたことからも、そう考えるのが自然ではないかと話した。

               
               ※ こちらのスライドの写真ははっきりしていませんが、大友亀太郎の写真です。

 合田氏の推量がすべて史実どおりかどうか私には判断できないが、氏の推量は膨大な歴史資料にあたった結果としての推量であるから、私は信頼したいと思っている。
 そうした大胆に推量することがまた氏の話を魅力的にしているのである。
 機会がある限り合田氏の話をお聴きしたいと思っている。