田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も12年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

映画 242 飛べ!ダコタ

2019-07-13 19:01:45 | 映画鑑賞・感想

 史実をもとにして制作された映画だそうである。太平洋戦争終結後5ヵ月、イギリス空軍の輸送機「ダコタ」が佐渡島に不時着した。その際の島民たちと飛行機の乗員との交流、そして不時着機を再び飛び立たせようと力を合わせる島民たちの姿を描いた感動的な映画である。 

※ 映画タイトルの前にナンバーリングを付けた。この数字は私が2007年に札幌に転居後に観た映画の通算の数である。「映画は最高のエンターテイメント」と考える私にとって、これからも有料・無料にかかわらずできるだけ映画を観ていこうと思っている。

                

 7月11日(木)午前、久しぶりに札幌市生涯学習センターの「ちえりあ映画会」に参加した。今回取り上げられた映画は、2013年に制作・公開された「飛べ!ダコタ」という映画だった。

 リード文で紹介したように、映画は実際にあった話題を題材として制作されたもので、タイに現存していた飛行機(ダコタ DC-3)を佐渡島に移送してロケを行ったそうである。

 映画は虚実(おそらく)織り交ぜて数々のエピソードが挿入されながら進行する。その底流にあるのは日本人の優しさ、佐渡島人の人の好さが流れていた。不時着した浜の村長が「困っている者を助けるのが佐渡の者(もん)だ」という言葉に日本人の良さを感ずる。何せあの大戦争での敗戦から5ヵ月しか経っていない時の言葉であるから、その心根を同じ日本人として誇らしく思う。

            

 映画は滑走路のない佐渡島で島民が力を合わせて浜に石を敷き詰めて500メートルもの滑走路を造り、再び飛び立たせた。

 主演は村長の娘役を演ずる比嘉愛未という沖縄出身の女優さんであるが、彼女の恋人(窪田正孝)は軍隊に行き足を失くしてしまう。その彼が「戦争中、足を失くして、もう戦争にはいかなくて済む、そんなことを悦ぶ時代にはもう戻りたくない…」というセリフには泣かされた。

 この映画は、声高には叫ばないものの戦争の悲惨さ、愚かさを静かに訴える映画でもあった…。

               

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映画 241 天のしずく

2019-07-05 19:34:44 | 映画鑑賞・感想

 料理研究家の辰巳芳子さんは「おつゆ」は、天から贈られた“つゆ”だという。素材を大切にする日本の「おつゆ」、西洋発の「スープ」に心血を注ぐ辰巳芳子さんの生きざまを追うドキュメンタリーを観た。

               

 7月3日(水)午後、札幌エルプラザ(「男女共同参画センタ-」「消費者センター」「市民活動サポートセンター」「環境プラザ」)において、「エルプラシネマ」が開催され参加した。この日上映されたのは「天のしずく」辰巳芳子“いのちのスープ”だった。

 映画は料理研究家の辰巳芳子さんの生涯を紹介しながら、料理研究、料理普及に努める辰巳さんの姿を追うドキュメンタリーである。

                  

 日本の食に提言を続ける料理研究家の辰巳芳子は、彼女が病床の父のために工夫を凝らして造り続けたスープは、やがて人々を癒す「いのちのスープ」と呼ばれるようになり、多くの人たちが関心を寄せるようになった。脳梗塞で倒れ、嚥下障害により食べる楽しみを奪われた父の最後の日まで母(日本の料理研究家の草分け)と娘(辰巳芳子)は工夫を凝らしたさまざまなスープを作り父を支えた。それが「いのちのスープ」の原点だった。

 映画では、スープを作り出す食材を作る全国の生産者を訪ねるが、彼らは作物への誠実な志を持ち、辰巳さんに食材を提供する。旬の作物を育てる繊細で美しい自然風土。そしてそれぞれの素材が性質を生かし、喜ぶように丁寧に辰巳芳子は調理する。そのスープを

幼児から老人までが喜んで口にする。それぞれが交響曲のように、いのちの響きを奏でているように伝わってくる。

            

 辰巳芳子さんは調べてみると現在93歳で健在だそうだ。映画は2012年に制作されているから、当時辰巳さんは85歳前後である。とてもそのお歳には見えなく背筋がピンと張り、堂々とした姿が印象的である。

 海、山、畑の恵みを渾然一体化し最も吸収しやすい状態にしたスープ(おつゆ)こそ、究極の一品といえるのかもしれない。私たちの食生活に警鐘を鳴らす優れた作品だった。

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映画 240 それから

2019-06-26 16:28:04 | 映画鑑賞・感想

 文豪夏目漱石の同名の小説の映画化である。明治の時代に道ならぬ恋(?)に身を焦がす主人公とその恋人の物語である。監督(森田芳光)の力量やキャスト(松田優作、藤谷美和子など)の好演によって、上質の映画に仕上がった作品と映った。

                

 昨日(6月25日)午後、北海道生涯学習協会が主催する「懐かしのフイルム上映会」の6月編が開催された。

 今回取り上げられたフイルムは、夏目漱石原作森田芳光監督「それから」だった。

 時代は明治後期のである。映画は、学歴はありながらも定職には就かず、本家の援助を受けながら裕福な生活を送る永井大助(松田優作)が友人の平岡常次郎(小林薫)の妻である美千代(藤谷美和子)とともに生きる決意をするまでを描いたものである。

          

 明治の時代の良家のゆったりと流れる生活の様子を若き日の松田優作(当時35~6歳)が好演している。淡々と流れる映画の前半はむしろ私には退屈にさえ思えたが、後半になってにわかに緊張した流れとなっている。

 それは若き日のころ、相思相愛だった大助と美千代だったが、さまざまな葛藤の末に大助は友人の常次郎に美千代を譲ったのだった。しかし、さまざまな事情の末に再会したとき、大助は悩み苦しんだ末に美千代と生きる決意をして、美千代に打ち明けたところ、美千代の同意を得たのだったが…。

 時代は明治である。しかも良家にあっては許されるはずのない大助の決断だった…。映画はここで終わるのだが、はたして「それから」はどうなったのだろうか?

          

 これが現代の話だったらどうだろうか? たとえ現代であっても一般的には許される話ではないと思う。それが道徳や倫理により厳しい明治の時代にあって、二人の行く末は茨の道だと想像される。映画を観た人たちは二人の悲しい結末を予想したのではないだろうか?

 そんな予想をたてたくなるほど、主演の松田優作の静の中に含まれた狂気と諦念の演技は素晴らしい。また、明治の時代の哀しい女を演じた藤谷美和子も美しさと哀しさを見事に表現していたと思った。

 1985(昭和60)年、森田芳光監督と、松田優作のコンビが素晴らしい映画を世に出していたことを今ごろになって知った…。

 

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映画 239 僕たちは希望という名の列車に乗った

2019-06-13 19:49:18 | 映画鑑賞・感想

 映画の題名を見ると、やや前時代的にも感じられる。しかし、私は反対に題名に惹かれて映画館に足を運んだ。映画を観終わり「あゝ、良い映画を観たなぁ…」という感慨に浸ることができた映画だった。

                

            ※ ポスターの中で前列右がクルト、左から二人目がテオが主役の二人です。

 映画が旧東ドイツで起こった実話をもとにしたものである、ということを知り興味がわき今日(6月13日)午後、上映館である「シアターキノ」に足を運んだ。

映画のストーリーを広く配布されているフライヤーの文章から拝借すると…、

「1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、列車に乗って訪れた西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにする。クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行した。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは“社会主義国家への反逆”と見なされる行為だった。やがて調査に乗り出した当局から、一週間以内に首謀者を告げるようにと宣告された生徒たちは、人生そのもの関わる重大な選択を迫られる。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも労働者として生きる道を選ぶのか……。」 

          

          ※ 映画の一場面。当局からの追求に苦悩する生徒たちの場面です。

 1956年というと、あの悪名高き(?)「ベルリンの壁」が築かれる前である。東ドイツの人たちも検査があったとはいえ、西ベルリンにも行き来することができた時代である。しかし、東ドイツの住む若者たちにとっては社会主義の窮屈さを感じながら日々を送っていたことは想像に難くない。そうした中で、ハンガリーの民衆蜂起に彼らは大きな勇気と希望を抱き、黙祷はそのことに対するちょっとした共感を表す行為だったのだが、これが当局の逆鱗に触れてしまったということだ。

 映画の見どころは、当局から追及される中で、自分の思いに忠実に生きるのか、それとも当局の言いなりとなって自らの身を守るのか、苦悩し葛藤する彼らの姿である。結論は映画の題名からも想像されると思う。彼らのほとんどは、当局の意向に逆らい西ベルリンに向かう列車にのって故郷を後にしたのである。

             

             ※ ポスターを背にしたドイツ人監督のラース・クラウメさんです。

 映画の最後に、「彼らクラスメイト19人のうち4人を除き、西ベルリンで高等学校の卒業資格を得た」というエンドロールが流れた。

 こうした動きが東ドイツ当局を刺激し、1961年8月に突然東西ベルリンの間に“壁”を築き人民の往来を禁止した。

 私事ではあるが、私は1968年10月に西ベルリンを訪れる機会があった。そこには「ベルリンの壁」が厳然としてあった。私はその際、東ベルリンにも入ることができたが、壁近くの東ベルリンの街は住宅(アパート)が建っているものの人の気配を感ずることのない寒々とした風景だったことを記憶している。あるいは、壁に近いところには住民が住むことが制限されていたのだろうか?

 その後、東ドイツを含む社会主義国家だった東欧の国々はご承知のように次々と民社化されたことは周知のとおりである。東ドイツだけではなく、東欧の国々の中では映画のような苦悩や葛藤があらゆるところで繰り広げられていたことが想像される。

 自分の思いや願いを抑圧される苦悩を体験することのなかった自分には彼らの苦悩にどれだけ寄り添えたか疑問であるが、権力が個人を縛るということだけはこの世から消え去ってほしいと願いたい。

                

               ※ 原作の日本語訳も刊行されているようです。

 なお、僕たちは希望という名の列車に乗った」という題名は日本で付けられた題名であり、ドイツでの原題は「沈黙する教室」という題名だそうである。

 

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映画 238 あん & ドリアン助川講演

2019-06-09 19:52:02 | 映画鑑賞・感想

 ハンセン病患者がおかれていた厳しい現実を映す映画であるが、名優樹木希林が主演した映画という意味でも記念碑的映画である。映画上映の後、原作者のドリアン助川氏が著書「あん」誕生の背景を語った。

                

 今日(6月9日)午前、札幌プラザ2・5において『あん』の上映と、原作者であるドリアン助川氏の講演があると知って駆け付けた。

 映画『あん』の内容については、ウイキペディアの掲載内容を拝借する。 

「季節は春。桜の咲き乱れる公園に面したどら焼き屋、『どら春』で、辛い過去を背負う千太郎(永瀬正敏)は雇われ店長を続け、日々どら焼きを焼いていた。ある日この店を徳江(樹木希林)という手の不自由な老婆が訪れ、バイトに雇ってくれと千太郎に懇願する。彼女をいい加減にあしらい帰らせた千太郎だったが、手渡された手作りのあんを舐めた彼はその味の佳さに驚く。徳江は50年あんを愛情をこめて煮込み続けた女だったのだ。店の常連である中学生ワカナ(内田伽羅 樹木希林の孫娘)の薦めもあり、千太郎は徳江を雇うことにした。徳江のあんを使ったどら焼きのうまさは評判になり、やがて大勢の客が店に詰めかけるようになる。だが、店のオーナー(浅田美代子)は徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつけ、千太郎に解雇しろと詰め寄る。そしてその噂が広まったためか客足はピタリと途絶え、それを察した徳江は店を辞めた。素材を愛した尊敬すべき料理人である徳江を追い込んだ自分に憤り、酒に溺れる千太郎。ワカナは彼を誘い、ハンセン病感染者を隔離する施設に向かう。そこにいた徳江は、淡々と自分も自由に生きたかった、との思いを語るのだった。」

           

          ※ 出演者を囲んで左端がドリアン助川氏、右端が監督・脚本の河瀬直美氏です。 

 上記内容でもお分かりのように、我が国がハンセン病患者に対して行ってきた隔離対策によって自由を奪われて人生を過ごしてきた主人公(徳江)を通して、人として生まれてきたことの意味を問う映画である。原作(ドリアン助川)の良さ、監督・脚本の河瀬直美のプロデュース力、徳江役の樹木希林、雇われ店長役の永瀬正敏の好演が相まって非常に上質な作品に仕上がり、考えさせられる映画だった。

            

            ※ 札幌プラザ2・5のステージ上で講演するドリアン助川氏です。

 映画上映の後、原作者のドリアン助川氏がステージに登場し、作品誕生の内側を語った。それによると、彼自身が非常に波乱に富んだ人生を送ってきたようだが、そうした中で絶えず“生きることの意味”を問い続けていたという。ある時、ラジオ番組で若者の人生相談をしていた際に、「社会のために役立たねば生きている意味がない」的な若者の声を聞いたことが、ハンセン病に目を向けるキッカケになったという。

 ドリアン氏は普遍的な意味で「この世に生まれてきた意味」を考え続けたという。そして次の言葉が生まれたそうだ。「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには、生きる意味がある」と…。

 ハンセン病ばかりでなく、残念ながら我が国には過去、現在を問わず数々の“差別”の問題が存在している。私たちは社会的弱者と言われる人たちに対してもっともっとセンシティブ(敏感)にならなければならない、ということをこの映画は訴えていると受け止め、私自身もそうありたいと自省させられた映画だった。

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映画 237 次郎物語

2019-06-04 16:17:18 | 映画鑑賞・感想

 映画「次郎物語」は作家・下村湖人の自伝的小説を映画化したものであるといわれている。映画は主として次郎の少年時代から、次郎の母親が亡くなるまでを描いたものであるが、感性に乏しい私にはイマイチ映画の良さを理解することができなかったのだが…。

                

               ※ 写真の次郎は10歳児を演じた伊勢将人だと思われる。

 道民カレッジが所蔵するフィルムを定期的に鑑賞する「懐かしのフィルム上映会」が5月30日(木)午後にあり参加した。

 映画「次郎物語」は昭和62(1987)年に制作・公開されたものである。「次郎物語」は映画化に適した作品なのだろうか、それ以前の昭和16(1941)年、昭和30(1955)年、昭和35(1960)年にも映画化され、本作は4度目ということになる。

          

          ※ 肩車の上の次郎は6歳児を演じた樋口剛嗣と思われる。

 映画の内容については、ウェブ上に上手にまとめたものが載っていたので、それを拝借することにすると…、 

 昭和の初め、次郎は母・お民の体が弱かったため、生まれてすぐお浜の家に預けられた。お民も元気になり実家に引きとられたが、お浜になついている次郎は連れ戻されるたびに逃げ帰るのだった。次郎の実家、本田家は、古くから続いた由緒正しい家柄で、士族の格式を守り子供たちの躾も厳しかった。6歳の夏、とうとう実家に連れ戻された次郎は、それまで自然の中で伸び伸びと育てられていたから、本田家の家風に息もつまりそうな思いの日々が始まる。祖母のおことは、乳母のお浜を恋しがる次郎に何かにつけて辛くあたった。体の丈夫でないお民は、おことと次郎の間でおろおろするばかり。父親の俊亮は、遠く離れた役所に勤めていたため、週に一度しか帰宅しなかったが、次郎を兄弟と分けへだてなく可愛がってくれた。十歳になった次郎は、相変わらず家庭に馴染まず、お民の実家、正木家や同級生の竜一の家へ行くことで寂しさを紛らわせていた。正木家の雇人、喜さぶは次郎を弟のようにかばってくれる。喜さぶと竜一の姉、春子とは相愛の仲だったが、喜さぶの家の没落で身分が変り、春子は遠い東京へ嫁入りすることになった。ある日、次郎は餓鬼大将にいじめられている兄と弟を助け、逆に餓鬼大将に怪我させてしまう。そのことでおことやお民に責められる彼の味方となったのは俊亮だった。次郎がようやく本田家の毎日に馴染む頃から、悪いことが続くようになった。次郎を可愛がってくれた祖父、恭亮が死に、その看病疲れからお民も発病、そして本田家の破産。一家は町に移り慣れない商売を始めたが、次郎は正木一家でお民の看病をすることになった。同じ頃、お浜の一家も夜逃げ同然に故郷を離れ、消息が知れなくなっていた。お民の病は重かったが、一所懸命看病する次郎にお民もうちとけ、二人の間にはようやく母と子の愛情が通じ合うのだった。夏になり、浮立の踊りに参加する次郎の衣裳を縫いあげ送り出したお民は、知らせを聞いて炭鉱から駈けつけたお浜にこれまでの非礼を詫びた。浮立連の中で踊っていた次郎は、お民の容態急変の知らせに枕許に急ぐが、お民の顔は既に白布で覆われていた。 

ということなのだが、観ている私には次郎の成長の様子をどこか淡々と描いているような気がしてならなかった。祖母のおことが次郎につらくあたるところも、感情移入するほどの酷さとは映らなかったし、次郎もそのことは淡々と受け流しているように私は受け止めた。

               

        ※ 父親の俊亮役の加藤剛と母親のお民役の高橋恵子と共に写る次郎訳の伊勢将人

 敢えてこの映画からメッセージを受け止めるとすれば、里子に出されたことで母親の民子より育ての親であるお浜に懐いていた次郎が、母親が病気になったことを契機に親子の情が復活したところに次郎の精神的な成長を見た、といったところだろうか?

 言い訳になってしまうが、映画を観た日は私の体調が優れなかったことも多分に影響していたように思われる。いやいや、やっぱり私の感性が乏しいというのが最大の因なのだろう。

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映画 236 カレーライスを一から作る

2019-05-19 18:43:41 | 映画鑑賞・感想

 探検家で、武蔵美術大学の教授を務める関野吉晴氏がゼミの学生たちとカレーライスを作るうえで必要なすべての材料を一から自分たちで作るという計画を提案し、実際にその軌跡を追うドキュメンタリーである。

                

 今日(5月19日)、札幌プラザ2・5で表記映画の上映と関野氏の講演があると知って駆け付けた。関野氏はアフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通って南アメリカ大陸まで拡散していった約5万3千キロの行程を自ら脚力と腕力だけをたよりに足かけ10年の歳月をかけて遡行したグレートジャーニーを完遂したことで知られる探検家である。

 関野氏はグレートジャーニーの完成と相前後して武蔵美大の教授に就任していた。

         

         ※ 武蔵美大で講義中の関野吉晴氏です。

 今回の映画は、「モノの原点を知ることで社会が見えてくる」と考える関野氏が学生たちにそのことを伝える手段として、カレーライスに必要なすべての材料を一から自分たちで作るということを学生たちに提案し、9ヵ月にわたる学生たちの試行錯誤の様子をドキュメンタリーとして追い求める映画である。

 学生たちは、田植えの経験も、野菜を種から育てる経験も初めてだった。その作業の姿はいかにも頼りないものだった。そして最大の懸案は、カレーに入れる肉をどうするか、という問題だった。当初はダチョウを飼育しようとして幼鳥を飼い始めたが神経質なダチョウは環境に慣れることなく三羽ともに死なせてしまった。代わりに飼い始めたのが烏骨鶏とホロホロ鳥だった。やがてその鳥たちが成長して、カレーライスの材料としなければならない時になって、ゼミ生たちの中に迷いが生じ始め「鳥たちを屠るべきか、生かすべきか」悩んだが、学生たちは「人は命を食べないと生きていけない」という現実を直視する中で結論を導き出す。映画の中で、ともすれば感情的になりやすい(?)女子学生が冷静に自分の考えを述べる姿が印象的だった。

      

      ※ 学生たちは慣れない手つきで懸命に農作業に励みました。

 関野氏は言う。実は「一から作る」という実践はカレーライス作りが初めてではなく、その前に学生たちと「カヌーを一から作った」という体験があったそうだ。そのことを知っていた後輩たちが、関野氏に再びと要請があったことで、関野氏は今度は「カレーライスを一から作る」ことを提案したという。こうした一から何かを作るという一見無駄な行為を通して学生たちに「何かに気付いてほしい」という願いがあるそうだ。

           

           ※ プラザ4・5のステージで映画の背景や氏の生き方を語る関野吉晴氏です。

「学生たちは今気づかなくともよい。今回のプロジェクトが彼らの人生のどこかできっと生きてくるはず」だと…。それは関野氏がグレートジャーニーから得た貴重な体験でもあるようだ。

 関野氏のお話は一見とりとめのない話のようにも映ったが、そこには氏の地球に対する、あるいは人生に対する哲学のようなことを拝聴した思いだった。氏は今年70歳になるようだが、まだまだ夢をたくさん持っていると語る姿が魅力的だった。

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映画 235 一杯のかけそば

2019-04-29 18:14:11 | 映画鑑賞・感想

 映画は1989年に日本中を感動の渦に巻き込んだ栗良平作の童話をもとに、1992年に映画化されたものである。ブームにはなったものの、原作に作為を感じられたことから、私自身も今一つ作品の中に入りきれなかった…。

                

 道民カレッジが所蔵するフィルムを随時公開する「懐かしフィルム上映会」が今年度も始まり、その第1回上映会が4月25日(木)午後、かでる2・7の試写室で行われた。今回取り上げられたフィルムは1992年、東映製作の「一杯のかけそば」だった。 

 当時ブームとなった「一杯のかけそば」であるが、そのお話自体を知らない人たちのために、ウィキペディアに掲載されているあらすじをそのまま転写することにする。 

               

 1972年大晦日の晩、札幌の時計台横丁(架空の地名)にある「北海亭」という蕎麦屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると母親が「かけそばを1杯頂きたい」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出されたかけそばをおいしそうに分け合って食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。子供たちは就職してすっかり立派な大人となり、母子3人でかけそばを3杯頼んだ。 

 私が映画の中で唯一心を動かされたのは、母子のうちの弟が家庭のことを作文に書いて母親とお兄さんに感謝することを読み上げたシーンである。純真な小学生(少なくとも私はまだそう信じている)ならあり得るかな、と思われたからである。それは映画の中盤だったが、さらなる感動のシーンがあるのかな、と思いながら見続けたのだが、私からみると案外あっさりと終幕を迎えたように思えた。

               

 母親役を演じた泉ピン子の過剰にならない抑えた演技が印象的だった。また、いかにも人の良さそうなそば屋のおかみを演じた市毛良枝ははまり役だと思われた。しかし、原作のうさん臭さがどうしても気になってしまいストーリーに入り込めなかった点が残念な映画だった…。

※ 今回使用した画像は全てウェブ上から拝借したものである。

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映画 234 翔(と)んで埼玉

2019-03-29 17:09:05 | 映画鑑賞・感想

 「ださいたま」と蔑称(?)を付けたのはあのタモリさんだそうだが、その埼玉県を漫画家の魔夜峰央が自らも住む埼玉県を自虐的に描いたギャグ漫画「翔(と)んで埼玉」を映画化したところ、予想以上にヒットしているらしいと耳にし、映画館へ足を運んだ。

               

 以前から気になっていた映画翔(と)んで埼玉」だったが、茶番の映画に1,100円も出してわざわざ見るべき価値があるのか迷っていたのだが、次の新聞コラムが私の背を押した。3月27日付の北海道新聞朝刊の1面コラム「卓上四季」の一文である。少し長いが引用することにする。 

「スタバはないけど、スナバはある」-。2012年、当時47都道府県で唯一「スターバックスコーヒー」がなかった、鳥取県の平井信治知事の発言だ。スナバとはもちろん、全国有数の観光地鳥取砂丘▼この自虐ユーモアは注目を集めて、結果的に強力なご当地PRとなった。その影響か「自虐PR」が各地で相次いだ。「のびしろ日本一。いばらき県」「島根は日本の領土です」など、ユニークなものばかり▼道内でも財政破綻した夕張市がかつて、ご当地キャラクター「夕張夫妻」を発表した。幸(さち)薄(うす)そうな「夫妻」と「負債」の語呂合わせに加え、「金はないけど愛はある」のキャッフレーズで、カンヌ映画祭のグランプリに輝いた▼こちらは「自虐」どころか「けなし」にも近いが、大人気だそうだ。公開中の映画「翔(と)んで埼玉」。「ダサいたま」などと揶揄される埼玉県をとことんいじる▼「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ」といった過激なせりふや、名物の草加せんべいで「踏み絵」をさせるなど、当の埼玉県人に大受けらしい。「よく調べてある」と、好意的な反応も多いようだ。▼自慢ばかりでは疲れる。関係者を不愉快にさせない節度は必要だろうが、弱点を見せられた方が親しみが湧くのかもしれない。好イメージの強い北海道も、ときには、こんな「逆転の発想」でご当地PRをすれば、きっと面白い。

  コラムの中にもあるとおり「当の埼玉県人に大受けらしい」というところに救われるというか、「それじゃ、一緒に笑ってみようかな?」との思いから、3月27日(水)午前、ユナイテッドシネマ札幌に足を運んだ。

          

 映画は正直なところあまりにも荒唐無稽すぎて素直に笑えなかったというのが本音である。ところどころクスッと笑えるところはあったものの、大爆笑というほどではなかった。もしかしたら、ユーザーレビューで「関東の人と他のエリアの人だと全然面白さは違う」と述べている人がいたが、私のような生粋の道産子で北海道しか知らない男にはほんとうの面白さが理解できなかったのかもしれない。私にはむしろエンディングで流れた芸人はなわが作詞作曲した「埼玉県のうた」の方が笑えた。本日のブログの最後は、そのはなわ作詞・作曲の「埼玉県のうた」の歌詞を転写して終えることにする。 

               

埼玉県の歌  作詞:はなわ  作曲:はなわ 

     

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダダさいたま

 

 どんなに歩いても 海がない

 海だけならまだしも 空港ない

 名所もない さらに郷土愛もない

 だけどアジア一でかい団地がある

 団団団ンダ団団団 団ンダダさいたま

 

 埼玉の人は なぜかわからないが

 東京の人よりも 東京に詳しい

 アルタの下だとか 上野のアメ横で

 メロン食ってるやつら みんな埼玉の人

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダダさいたま

 

 埼玉の自慢と言えば

 快晴日数が日本一

 せっかく晴れても

 お出かけスポットがない

 埼玉の人におすすめスポットを聞いたら

 鉄道博物館 まさかの屋内

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダダさいたま

 

 深谷市の名物 深谷レンガは

 なんと東京駅のレンガにも使われてる

 そんな深谷駅は東京駅と瓜二つ

 だけどよく見たら レンガに似せたタイル

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダダさいたま

 

 埼玉西武ライオンズのホーム球場

 西武ドームはドームなのに 雨に濡れる

 貧乳率が日本一 そして巨乳好きも日本一

 男と女が今日もすれ違う

 ダンダンダン ダダンダンダン

 ダンダダさいたま

 

 名産が無さすぎてご当地キティは

 サイのかぶりもので玉に乗ってる ただのダジャレ

 住みにくい県第1位は埼玉 しかも6年連続

 DAN DAN DAN DA DAN DAN DAN

  DAN DAN DAN DA DAN DAN DAN

  こっからは俺の勝手な埼玉のイメージさ

 談 団 暖 弾 断 男 DANDA ダさいたま

 

 もちろんライバルは 千葉

 やたらとやたらと 池袋で遊ぶ

 海がないくせに サーファー多すぎ

 ドンキが大好き 漫喫大好き おやつはゼリーフライ

 

 さいたま市はひらがな

 さいたま市はひらがな

 さいたま市はひらがな

 さいたま市はひらがな

 漢字全然読めないのかな?

 こないだ この歌を埼玉で歌ったら

 目の前にいた ヤンキーマジギレ

 ダンダンダン ダダンダンダン

 せいぶしんじゅくせん とうぶとうじょうせん

 僕の故郷し佐賀県だけど

 実は生まれた場所は 春日部

 だんだんだんだだんだんだーん

 だから大好き埼玉

          

 

と映画そのものについての論評はしないまま稿を終えることにするが、時にはこのように徹底してバカバカしいことを可笑しがるのも映画の魅力なのかもしれない。何といっても私にとって映画は最大のエンターテイメントなのだから…。

 

※ 本日使用の写真は全てウェブ上から拝借しました。

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映画 233 運び屋

2019-03-14 16:39:12 | 映画鑑賞・感想

 齢88歳の監督・主演のクリント・イーストウッドにとっては10年ぶり監督・主演映画だそうである。しわが増え、少々丸みを帯びた背を見せながらも、渋味を増した彼の演技は存在感抜群だった。映画らしい映画を観たと思えた一作だった。

              

 3月13日(水)午前、突如映画「運び屋」(原題:The Mule)を観ようと思った。私の映画を観ようと思う動機は単純である。今回の場合は、購読している月刊誌「文藝春秋」誌の今月号で映画評論家の芝山幹郎氏が「クリント・イーストウッド会見記」を寄稿しているのを前夜に読んで「観てみよう!」と思い立ったのである。

 映画はアメリカで87歳になる老人が大量のコカインを運んでいたという実際の報道記事をもとに、長年にわたり麻薬の運び屋をしていた孤独な老人を描いたドラマである。

          

 商売に失敗して自宅も差し押さえられて途方に暮れていたとき、車の運転さえできればいいという仕事を持ちかけられたアール(クリント・イーストウッド)は、簡単な仕事だと請け負ったが、実はその仕事はメキシコの麻薬カルテルの「運び屋」だった…。

 初めはその仕事の危険さを知らなかったアールだが、次第に運んでいる物の正体を知るに及ぶが、そうなってからでは抜けることもできなくなる。組織の命令に従わないアールは、命まで狙われることになってしまう。果たしてアールの運命は???

 共演は、アールを追い込んでいく麻薬捜査官にブラッドリー・クーパーのほか、ローレンス・フィッシュバーン、アンディ・ガルシアなどが出演している。イーストウッドの実娘のアリソン・イーストウッドも映画の中でアールの娘役で出演しているのも話題の一つだ。

          

          ※ 実娘のアリソン・イーストウッドとの共演場面です。

 仕事に夢中になるあまり家庭も顧みず、妻や娘から見捨てられたアールだったが、妻が危篤となり自らの命の危険も顧みず妻の病床に駆けつけたことによって、妻や娘の気持ちは氷解する。このあたりの落としどころはクリントの得意とするところだろうか?

           

           ※ 麻薬捜査官役のブラッドリー・クーパーです。

 麻薬の密輸組織の壊滅を図るといっても派手な銃撃戦やカーチェイスがあるわけでない。むしろ地味な展開である。だからハラハラドキドキというよりは、展開を淡々と追うことができた映画だったのに私の中にはなぜか満ち足りた思いになった。それはきっと、クリント流の しっかりと作り込まれた"映画"を観たという思いに包まれたからだろう…。

 

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